入場の列は、展示場の外の広場を三回折れ曲がっていた。リリィは丸眼鏡を押し上げ、胸の前でトートバッグを抱えている。その隣で、ミコは黒地に黄色いバナナ柄のシャツを着て、列の先頭のほうを見ないようにしていた。
ミコさん、今日の服、すてきです。バナナ。
外出用のパジャマ。……いや、パジャマじゃない。シャツ。たぶん。
リリィのお母さんは、入口の近くの休憩スペースで待っている。「二時に、ここ」とだけ言って、文庫本を開いた。リリィが一人で即売会に来るのは初めてで、ミコが付き添いを引き受けたのは、リリィに頼まれた三日後だった。返事に三日かかったのは、人混みのことを考えていたからだ。
これ。配置図。
ミコが差し出した紙には、会場の地図が印刷されていた。目当ての机に、赤と青の二色で丸がついている。
赤と青、何が違うんですか。
赤は、絶対に行く。青は、元気が残ってたら行く。……たぶん、青までは行けない。
私のノートと同じです! 調べて分かったことと、こうだったらいいなを、色で分けてるんです。
じゃあ、青は「こうだったらいいな」のほう。
十時。列が動きだした。会場に入ったとたん、天井の高い空間に、人の声と紙の匂いがいっぺんに押し寄せてきた。ミコの肩が、目に見えて三センチ上がった。
大丈夫ですか。
大丈夫じゃない。でも、赤の一個目は、この先の右。
一つ目の赤丸は、ミコの目当ての机だった。紙の表紙に、ちゃぶ台を囲むだらしない大人たちの絵が描いてある。ミコは机の前で立ち止まり、本を指さし、口を開け――そのまま閉じた。
売り子の人が、にこにこしながら待っている。ミコは本を指さしたまま、動かない。五秒。十秒。
あの、こちらを一冊お願いします。
リリィが代わりに言うと、ミコは小銭を正確な額で、両手で差し出した。本を受け取って三歩離れてから、ようやく息を吐いた。
……ありがとう。「これください」の五文字が、昔から出てこない。ネットだと何千字でも書けるのに。
どういたしまして。何の本なんですか。
ろくでもない大人たちが、ろくでもないまま、誰も見捨てない話。創作だけど、空気はヒナまつりに近い。
ヒナまつりって、どんなお話ですか。
超能力の女の子が、ある日いきなり、若いヤクザの部屋に現れる。その人は、超能力が怖くて追い出せないでいるうちに、女の子がずぼらで何もできないって分かって、ついつい世話を焼いちゃう。[2]
ヤクザ……。
こわい仕事の人。……でも、あの話でいちばんこわいのは、その子の家事のできなさ。それと、こわい仕事の大人が、いつのまにか世話を焼くほうに回っちゃうところ。そこなんだよ。
こわい仕事の大人が、世話を焼くほうに回る。ノートに書きます。
二つ目の赤丸は、リリィの目当てだった。壁沿いの、少し静かな列の端。机の上に、手のひらほどの小さな冊子が並んでいる。表紙には、細い線で描かれた円と、その中の文字のような模様。
リリィは机の前で、ぴたりと止まった。今度は、リリィのほうが固まる番だった。
……どうした。
(小声で)作った人が、目の前にいます……。
机の向こうに座っていたのは、リリィの母と同じくらいの年の、髪を一つに結んだ女の人だった。手元で、次の冊子に一枚ずつしおりを挟んでいる。
言いたいこと、あるんでしょ。
あります。でも、順番が決まらなくて。
ミコは配置図の裏に、ボールペンで三行だけ書いて、リリィに渡した。「一、一冊ください。二、聞きたいことを一個だけ。三、ありがとう」。
……一冊、ください。
ありがとうございます。
あの、一つだけ聞いてもいいですか。……この魔法陣の世界の、どこが好きなんですか。
女の人は、しおりを挟む手を止めた。少し驚いた顔をして、それから笑った。
描き方に決まりがあるところ、かな。決まりがあるから、間違えたときに、どこで間違えたか分かるの。……そんなこと聞かれたの、初めて。
あのお話の魔法は、強くなるための道具っていうより、見えてしまうものとどう付き合うかの話だと思っていて、だから決まりも、守るためっていうより、相手を怒らせないための礼儀みたいで、私のノートの円も、最近やっと丸くなってきたんですけど、まだ一回も光ったことはなくて、でも光らなくても――
後ろに、次の人が並んだ気配がした。リリィは口を押さえた。
……ごめんなさい。続けていいですか、じゃなくて、もう行きます。三、ありがとうございました!
円、光らなくても、丸くなってるなら上手になってる。またね。
列を離れてから、リリィは冊子を胸に抱えたまま、しばらく何も言わなかった。ミコは隣で、黙って同じ速さで歩いた。
さっきの質問。前に、わたしにも同じこと聞いたよね。「その世界の、どこが好きなんですか」って。
覚えてたんですか。
覚えてる。あれ聞かれると、説教される準備をしてた肩が、勝手に下がるんだよ。……さっきの人も、たぶん下がってた。
十二時すぎ。人の流れが少しゆるんだころ、通路の向こうから、大きな声が聞こえてきた。
こんな薄い本で、この値段? 紙代のほうが安いでしょ。半分にならない?
机の向こうにいたのは、高校生くらいの売り子だった。値札を手で押さえたまま、言葉が出てこない顔をしている。周りの人は、ちらりと見ては通りすぎていく。
ミコが、足を止めた。さっき「これください」が言えなかった人とは思えない速さで、その机の横に立った。
その値段は、この人が決めたものです。
声は小さかった。小さいのに、周りの音が一瞬遠のいたように聞こえた。
高いと思うなら、買わなければいい。それだけです。値切るのは、描いた時間ごと値切ることになるので。
大きな声の客は、何か言いかけて、ミコの顔を見て、やめた。舌打ちを一つ残して、人の流れに戻っていった。
……あ、ありがとうございます。
いや。……一冊ください。
言えた。五文字が、すんなり出た。ミコは自分で少し驚いた顔をして、本を受け取り、早足でその場を離れた。壁際まで来ると、背中を壁につけて、ずるずるとしゃがみこんだ。手が、小さく震えている。
ミコさん。
……こわかった。大きい声の人、ほんとに無理。
でも、すごく静かな声でした。
誰かが雑に扱われてるのを見ると、なんか、声の音量のつまみが勝手に下がる。上がるんじゃなくて。……変でしょ。
変じゃないです。ノートの「分かったこと」のほうに書きます。ミコさんの声が静かになったら、怒ってるとき。
それ、書かないで。……いや、書いてもいい。誰にも見せないなら。
一時半。配置図の青丸は、結局一つも回れなかった。リリィの冊子が一冊、ミコの本が二冊。ミコは二冊目の表紙を、まだ一度も見ていない。
さっきの本、何の本だったんですか。
知らない。……見てから買えばよかった。
表紙をめくると、宇宙船の絵の、ていねいなSFの短編集だった。ミコは二ページだけ読んで、黙ってバッグにしまった。帰ってからちゃんと読む、という顔だった。
二時ちょうど。休憩スペースで、リリィのお母さんが文庫本から顔を上げた。ミコは姿勢を正し、リリィの半歩うしろに下がった。
今日はありがとうございました。疲れたでしょう。
……いえ。……はい。……楽しかったです。
三つの返事が、全部出た。リリィのお母さんは笑って、自動販売機の冷たいお茶を一本、ミコに手渡した。
ミコさん、次の即売会も、一緒に来てくれますか。
……青丸を、一個だけ回れるなら。
出口の自動ドアの前で、リリィは小さく指先を動かした。ドアは、ちょうどそのタイミングで開いた。ミコは何も言わずに、それを見ていた。たぶん、三回目くらいから、気づいていた。