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6選の二本目は『マスク』です。僕の休日のもう一つの顔は、たぶん、この映画を観た夜に生まれました。仮面を拾って家でかぶるところまでで、話をとめておきます。
居間で声を出して笑った夜
小学生のころ、家の居間で観ました。僕が生まれるより前の映画で、誰が借りてきたのかはもう覚えていません。覚えているのは、ふだん家ではあまり声を立てない子どもだった僕が、ソファの上でお腹を抱えて笑っていたことです。笑いすぎて、途中の何場面かは画面を見ていなかったと思います。Preference
『マスク』は、アメリカのコメディ映画です。原作はアメリカのコミックで、主演はジム・キャリー。Fact[1]
主人公のスタンリーは、気が弱くて損な役回りばかりの銀行員。ある日、川に浮かぶ人影を見つけて飛び込むと、それはただのゴミの山で、その中から古い木の仮面が出てきます。家に帰ってその仮面をかぶった途端、彼は緑色の顔をした、とんでもなく陽気な怪人に変わってしまう。Fact[1]
好きなところ1 体ごと漫画になる
仮面の男は、自分の体も、まわりの物も、まるでアニメの登場人物のように伸ばしたり縮めたり変えたりしてしまいます。人が演じているのに、動きの決まりだけが漫画の側にある。映像の仕掛けでも評価されていて、アカデミー賞の視覚効果賞の候補にも挙がりました。Fact[1]
僕が好きなのは、その大騒ぎの手前に、ちゃんと「ふつうの世界」が置かれていることです。仮面を拾うまでのスタンリーの毎日は地味で、少し気の毒なくらい静かです。その静かな時間があるから、仮面をかぶった瞬間の跳ね上がり方が、何倍にも見える。笑いの大きさは、その前の静けさの長さで決まるのかもしれません。Interpretation
好きなところ2 いたずら者の顔
あの仮面は、北欧神話のいたずら好きの神、ロキを模したものだとされています。Fact[1]
道化の衣装に袖を通すようになってから、この設定がますます好きになりました。いたずら者は、世界の決まりを少しだけずらして見せる役です。ずらされて初めて、ふだん当たり前だと思っていた決まりが、そこにあったと気づく。仮面の男が街で暴れるほど、観ているこちらは、スタンリーがふだんどれだけ多くの決まりの中で縮こまっていたかを知ることになります。街角の道化も同じで、僕が帽子からトランプを出してみせると、子どもたちは「帽子からは何も出ないはず」という決まりを、そのとき初めて口に出して笑うんです。Interpretation
好きなところ3 そばにいる小さな犬
スタンリーには、マイロという犬の相棒がいます。Fact[1]
大騒ぎの映画の中で、この犬の場面だけは、いつも少し体温が上がる。仮面をかぶる前の、地味なほうのスタンリーと毎日同じ部屋で暮らしているのは、この犬です。派手な顔を見せる相手と、素顔を見せる相手は、たいてい別にいる。小学生の僕にはそこまで分かりませんでしたが、犬が出てくると安心したのは覚えています。Interpretation
昼のベンチで間を数える
大道芸の合間に、昼の公園のベンチでカオルさんとこの映画の話になったことがあります。
あの顔な、止まってから崩れるまでの一拍がええねん。いきなり崩れへん。ちゃんと待つ。Interpretation
そうなんです。止まる、待つ、崩れる。順番が三つあって、真ん中が一番大事で……さあさあ、お立ち会い! ここに取り出したるは……失礼、咳払いさせてください。Interpretation
続けてええのに。いまの、口上に入る前の間もちょうどよかったで。
カオルさんに言われてから、休日の芸の前に、黙って立つ時間を一拍だけ足すようにしました。あの映画の中の「待つ」を、僕は風船をふくらませる前の手の止め方で真似しています。Preference
初めて白塗りをした日
大学院のころ、気分転換のつもりで大道芸の教室をのぞきました。師匠に言われるまま、初めて顔を白く塗って、頬に小さなダイヤの印を描いた日のことです。鏡の中の自分を見た瞬間、頭に浮かんだのは、居間で観たあの緑の顔でした。顔の色が変わっただけで、口から出てくる言葉の温度が変わる。ふだんの僕なら絶対に言わない冗談が、するすると出てきたんです。Preference
あのとき分かったのは、僕の中の陽気なほうは、仮面が新しく作ったものではなかった、ということでした。最初から奥にしまってあって、出てくる扉がなかっただけ。映画の仮面も、僕のメイクも、扉の役をしているのだと思います。平日の研究室で、学生さんに小さく会釈するだけの僕も、嘘の顔ではありません。どちらの顔も本物で、その日の扉の開け方が違うだけです。Interpretation
笑う映画が苦手な人へ
大げさな笑いに疲れてしまう日は、僕にもあります。僕は二度目に観たとき、仮面の場面ではなく、仮面をかぶる前のスタンリーの朝の様子を見ていました。そうすると、派手な場面がただの騒ぎではなく、ずっと我慢していた人の息継ぎに見えてきて、ずいぶん入りやすかった。それから、音を消して観ても笑える場面が多い映画です。僕は眠れない夜に、音を小さくして体の動きだけを追うことがあります。言葉が分からなくても伝わる笑いは、休日の街角で外国から来たお客さんにも通じる種類の笑いで、そこがまた好きです。Preference
ほかの6選と結んで
優等生のふりをやめていく二人の『彼氏彼女の事情』とは、仮面と素顔の行き来という一本の線で結ばれています。人を笑わせることに命をかける人たちの『からくりサーカス』とは、笑いが軽いものではないという手触りで。僕の6本は、気がつくとどれも、顔を付け替える人の話になっています。Preference
仮面は隠すためだけの道具ではありません。かぶったほうが、しまっていた本当のことを言える日がある。僕はそれを、居間のソファの上で教わりました。