十月の日曜、昼すぎ。駅前の広場で昼の回を終えたユウリは、公園のベンチで白い手袋を外した。赤と黒の衣装はそのまま、頬に描いたダイヤの印もまだ落としていない。
温かい缶のお茶を二本持って、カオルが隣に座った。最初の口上から、人の輪のいちばん後ろで観ていたらしい。
お疲れさん。今日の帽子のとこ、ええ間やったわ。お客さんが笑う前に、みんなでいっぺん息吸うたもん。
ありがとうございます。あの一拍は、いまでも毎回こわいです。
こわいんや。あんだけ跳ねとって。ほな聞くけど、道化の人にも推しっておるん?
あの緑の顔の人や。
いえ、緑じゃないほうなんです。仮面をかぶる前の、銀行の窓口に座っている彼のほう。
えっ、そっち? 変身するほうちゃうの。私、子どものころテレビの洋画の時間で観たきりやけど、緑の顔しか覚えてへんで。
それなら、終わりのほうまで話してしまってもいいですか。スタンリーの話をすると、どうしても最後まで行きたくなるので。
ええよ。うろ覚えのほうが、聞いてて楽しいわ。ネタバレどんと来い。
カオルは缶のふたを起こして、ベンチの背にもたれた。ユウリは膝の上で手袋をきちんとそろえてから、話しはじめた。
スタンリーは、気が弱くて人のいい銀行員です。周りからは軽く扱われてばかり。ある日、窓口にやってきた歌手のティナに心を持っていかれる。ところが、彼女が歌うクラブへ行ってみると、入口で追い返されてしまう。[1]
不憫やな。初手から。
救いは、親友のチャーリーがいることくらいです。みんなに笑われる彼を、ちゃんと友だちとして扱ってくれる人が、一人だけいる。[2]
おったおった、軽そうな友だち。ああいう人、おらんと困るねん。
僕もそう思います。スタンリーは、誰かに笑われる側の人であって、誰かを笑う側の人ではない。そこが、最初から最後まで揺れません。
そうして帰る途中、川に人が浮いているように見える。彼はためらわずに水へ飛びこみます。助けようとしたのは、ただのゴミの山でした。仮面は、そのゴミの中から出てくる。[1]
僕がスタンリーを好きになったのは、ここです。仮面は、彼がさえない一日の終わりに、それでも知らない誰かを助けようとして川に飛びこんだから見つかった。仮面のほうが彼を選んだのではなく、彼の優しさが先に水へ入っていった。僕はそう観ています。
そう聞くと、ええ話やな。ゴミやったけど。
ゴミでした。そこがまた、いい所で。数学でいうと、初期値です。どんな式で動かすかより先に、どこから動きはじめるかが、あとの道筋を決めてしまう。スタンリーの物語は、人を助けに飛びこむという初期値から始まっている。
急に黒板が出てきたな。でもな、ユウリくん。私は緑のほうが好きやで。あの顔になったとたん、街ごとアニメになるやん。
それも、もちろん好きです。僕の研究は、きれいな前提がそのまま成り立たなくなる所でこそ、ものの振る舞いが見えてくる、という考え方の上にあります。あの緑の顔は、スタンリーの毎日の決まりが一度に崩れる所です。だから目が離せない。ただ、崩れた所で見えてくるのが、元の彼の何なのか。僕が見ていたいのは、そっちで。
崩れたとこで、元の人が見える、か。野球でも、点差がついてからの守りで、その選手のほんまの性格が出たりするわ。
分かります。分かったうえで、一つ聞かせてください。変身した最初の晩に、彼が何をするか覚えていますか。
銀行強盗やったっけ。
それはもう少しあとです。最初の晩に彼が仕返しに行くのは、いつも威張っているアパートの大家さんと、おんぼろの代わりの車を貸した修理工場の人たち。[1]
仕返し、ちっちゃ! 世界をどうこう、とかちゃうねや。
そこなんです。誰にも止められない力を手に入れて、最初にやるのが、自分を小さく扱ってきた人たちへのいたずら。スタンリーの中に、大それた野心は見当たらない。あるのは、毎日少しずつ飲みこんできた、言い返したかった言葉だけです。
わかるわ。言い返したかった言葉なら、私もポケットにぎょうさん入っとる。
作中でも、仮面は彼の中に押しこめられていたものを外へ引き出している、という見立てが出てきます。仮面が何かを足したのではなく、もともと彼の奥にあったものが出てきた、ということです。[2]
そしたら、あの騒がしいのも、元はスタンリーなんや。
僕は観直すとき、ノートの左に仮面をかぶっている場面、右にかぶっていない場面を、出てきた順に書き出してみます。そうすると、僕が胸をつかまれる場面は、だいたい右の列に並んでいました。
そんな観方する人、初めて会うたわ。で、右の列、何が並んだん。
窓口で笑われる顔。クラブの入口で追い返される夜。川へ飛びこむ背中。派手な所は全部、左の列です。でも左の列の派手さは、右の列があるから効いてくる。
ええ。次の晩には、クラブ「ココ・ボンゴ」で、ティナと踊ります。追い返された店の真ん中で。[1]
あの踊り、覚えてるわ。私な、あそこはティナがええと思うねん。相手が全力で乗ってくれるから、緑のが思いきり跳ねられる。受ける人がうまいと、投げるほうも気持ちよう投げられるやろ。
ティナの役の人、あれが映画に出た最初やったんやて。それまで演技もしたことなかったらしいで。[1]
主演のジム・キャリーも、当時はまだ広くは知られていなくて、この映画で一気にスターになった人です。誰も先を知らない二人が、あの場面を踊っていた。[1]
僕があの踊りで見てしまうのは、ティナの前に立ったときの彼の目です。顔は緑なのに、窓口で彼女を見上げたときと同じ目をしている。少なくとも、僕にはそう見えます。
そう聞くと、あの踊りの見え方がちょっと変わるな。ほんで、そのあとは?
ここからは、畳んでおきます。僕がいちばん好きな小道具の話です。
Up to midway中盤の展開Tap to open
ユウリ「クラブで騒ぎを起こして逃げるとき、仮面の男は、派手なスーツの切れはしを一枚残していきます。それが、あとでただのパジャマの切れはしに戻ってしまう。警部はそれを拾って、スタンリーを疑いはじめるんです」
カオル「パジャマて」
ユウリ「笑いますよね。僕も初めは笑いました。でも観るたびに、少し胸が痛くなる。どれほど派手なスーツをまとっても、ほどけば、その下にいるのはいつものパジャマのスタンリーです。仮面は、彼を別の人に作り替えてはいない。ほつれた所から、ちゃんと本人がのぞいている。……僕の衣装も、脱げば平日のシャツです」[2]
風船を手首に結んだ子どもが、ベンチの前を走っていった。青い犬の形をしている。午前の回でユウリが作ったものだった。カオルがそれを目で追って、小さく笑った。
畳んだとこ、読んだで。あんた、そういう所で泣くタイプやろ。
泣いてはいません。少し、しんとするだけです。次も畳みますね。こちらは、僕が街角に立つ側として好きな場面です。
Up to midway中盤の展開(その二)Tap to open
ユウリ「公園で、警部たちが彼を捕まえにやってきます。そこで彼がやるのは、取り押さえに来た警官たちを、踊りに巻きこんでしまうことなんです。気がつけば、警官たちがそろって踊っている。そのすきに、彼はまんまと逃げおおせます」
ユウリ「さあさあ、お立ち会い! 右の旦那も左のお巡りさんも、手拍子ひとつで今日から一座の……失礼。咳払いをさせてください」
カオル「出た。口上」
ユウリ「止めに来た人を、お客さんにしてしまう。あれは大道芸の、いちばん古い技なんです。広場で、注意しに来た警備の人が、最後の風船の犬が仕上がるまで腕を組んで見届けてから、黙って帰っていったことがあります。あの日、僕は少しだけスタンリーに近づけた気がしました」[1]
その警備の人、ええ人やな。
大学の学生さんたちは、僕のこの顔を知りません。平日の僕は、廊下で小さく会釈するだけの人なので。
知らんままでええ。平日のユウリくんしか知らん人には言わへん、って約束やろ。私、口は堅いで。
助かります。仮面の中身を知っている人は、少ないほうが気楽ですから。スタンリーを観ていると、なおさらそう思います。
ほんで、こっから先が終わりのほうか。
はい。ここから先は結末まで行きます。まだ観直す予定がある人は、ここで閉じてください。
私はもう聞く気満々やから、続けて。
Ending and reveals結末に向かう展開Tap to open
ユウリ「やがて仮面は悪党の手に渡って、スタンリーは留置場に入れられてしまいます。そこへ面会に来るのがティナです。彼女が気持ちを伝える相手は、緑の顔の男ではなく、鉄格子の向こうにいる、仮面を取り上げられたスタンリーなんです」
カオル「仮面のない時に言うんや。ええな、それ」
ユウリ「それから、犬のマイロ。見張りの警官のいる所から鍵を取ってきて、主人を外へ出す。マイロが助けに来るのも、仮面のないスタンリーです。僕はここで毎回、膝の上の手を握ってしまいます」[1]
畳んだとこ、私もちょっと来たわ。
Ending and reveals結末Tap to open
ユウリ「クラブでは、ティナが悪党をうまく誘って仮面を外させ、それを蹴り飛ばします。転がった仮面をかぶるのは、マイロ。そのあいだ、スタンリーは仮面なしで悪党と取っ組み合うんです」
ユウリ「僕の胸の真ん中にあるのは、この数十秒です。緑の顔も、伸び縮みする体もない。気の弱い銀行員が、素手のまま、好きな人の前に立っている。仮面がなくても、あの人は川に飛びこんだ夜の人のままでした」
ユウリ「そのあとで彼は仮面を取り戻し、仕掛けられた爆弾を片づけて、悪党を水の渦の底へ消してしまいます。ただ僕にとっては、取り戻す前の取っ組み合いのほうが、ずっと大きな場面なんです」[2]
あんたが緑じゃないほうって言うた意味、やっとわかったわ。
Ending and reveals最後の場面Tap to open
ユウリ「最後は、市長がスタンリーをかばってくれて、疑いが晴れる。それから仮面は、あの川へ投げこまれます。親友のチャーリーが慌てて飛びこむけれど、先に仮面を取って泳いでいってしまうのは、マイロなんです」
ユウリ「仮面は壊されない。誰かに奪い合われもしない。陽気なものは、いちばん無邪気な犬のところへ渡っていく。もう彼には要らなくなった、というふうに僕には見えます。捨てられたのではなく、卒業したのだと」
カオル「私はちょっと違う読みやな。捨てたんでも卒業でもなくて、預けたんちゃうかな。いちばん信用できる相手に。犬やったら悪用もせえへんし、また要る日が来たら、返してもらいに行ったらええ」
ユウリ「預けた……。置き場所を変えただけ、ということですね」
カオル「そう。置き場所。私、物はなくさへんけど、しまう場所はよう変えるで」
ユウリ「その読みのほうが、いまの僕には優しいです。ノートの右の列と左の列のあいだに、もう一本、預けた物の列を足してもいいですか」
カオル「足し。ほんでその列、たぶん長なるで。あんた、預けたままのもん多そうやもん」
ユウリ「……否定できません」[1]
……畳んだとこ、最後まで読んだで。ほな、聞くけど。あんたも、いつかしまうん? 日曜の顔。
まだしまいません。僕は、まだそこまで行けていないので。
行かんでええよ。私な、あの衣装の前で子どもが笑とるの、見てて好きやねん。笑ってもろたら、それで勝ちや。仮面でも素顔でも、勝ちは勝ち。
……それを聞くと、少し救われます。正直に言うと、あの最後の場面は、観るたびにうらやましくて、少しだけ置いていかれた気持ちになるんです。
置いていかれてええやん。あんたには、午後の回がある。
広場のほうから、次の回を待つ子どもの声が聞こえてきた。ユウリは缶のお茶を飲み干して、白い手袋をはめ直した。
では、午後の回も、緑じゃないほうの僕が、緑のほうを少しだけ借りてきます。
ほな、今度は前の列で観よ。一拍ぶん先に笑たるわ。