開店前の昼、カオルの店。カウンターの奥の小さなテレビでギャグアニメの録画を流し、二人はいつものように、ボケからツッコミまでの間を数えていました。三本目が終わったところで、カオルが棚から一冊の漫画を抜き出します。
数える遊びの続き
ユウリくん、次はこれでやろか。漫画やけど、間の長さやったら負けてへんで。Preference
『H2』は、あだち充さんの野球漫画です。『週刊少年サンデー』で1992年から1999年まで連載され、単行本は全34巻。1995年から1996年にかけてテレビアニメも放送されました。Fact[1]
題名が、まず方程式のようですね。H の二乗、でしょうか。
そう読むと思た。ちゃうねん。
題名の『H2』の H は、四人の名前の頭文字です。ヒーローが二人、ヒロインも二人。投手の国見比呂、強打者の橘英雄、比呂の幼なじみの雨宮ひかり、そして比呂が高校で出会う古賀春華です。Fact[1]
二乗ではなく、二組。……記号の読み違いは、僕の職業病です。
わざわざ部のない学校へ
ほんで、始まり方がおもろいねん。野球の漫画やのに、最初に野球を取り上げてまう。Interpretation
比呂と英雄、それに捕手の野田敦は、中学で同じチームにいた仲間でした。ところが比呂は肘、野田は腰を医師に悪いと言われ、二人は野球をあきらめて、野球部のない千川高校へ進みます。比呂はサッカー部、野田は水泳部。英雄とひかりは、野球の名門・明和第一高校に進みました。Fact[1]
比呂は投手で、野田はその球を受ける捕手。英雄は明和第一で4番を打つ打者です。Fact[1]
……少し、順番を整理させてください。まず仲間がいて、次に野球を失って、それから野球のない場所へ行く。最初の一歩が、引き算なんですね。Interpretation
せや。私な、そこで毎回ちょっと黙ってまうねん。高校で、近くに女子が野球を続けられるとこがなくて、ソフトボールに移ったから。場所がない、っていうのは、肩より先に心にくるんよ。Preference
では、比呂さんがサッカーのユニフォームを着ているコマは、カオルさんにとって、他人事ではない。Grounded inference
愛好会という入口
もっとも千川高校には、まだ部として認められていない野球の集まり「野球愛好会」が、少ない人数で続いていました。あるとき、そのサッカー部と愛好会が野球で対戦することになります。相手のサッカー部員が野球を軽く見るのに腹を立てた比呂は、試合のさなかにサッカー部を抜け、愛好会のチームに加わります。Fact[1]
試合の途中で、比呂ひとりだけ相手のチームに乗りかえるんやで。いや、なんでやねん。そこ、私は何回読んでも声出して笑う。Preference
そのツッコミまで、二拍でした。ふだんより半拍早い。
数えんでええねん、そこは。
失礼しました。でも、同じ人が一試合のうちに、相手の側から味方の側へ立ち位置を変える。そこで、その試合の意味まで入れかわる。僕にはとても面白い順番です。Interpretation
甲子園をめざすなら、愛好会のままではいられません。比呂たちは野球部への格上げを願い出ますが、高校野球を嫌う校長はなかなか認めず、強豪の明和第一と試合をすることを条件に出します。Fact[1]
ちなみに、ヒロインの一人ひかりが入っているのは野球部ではなく、弓道部です。Fact[1]
部をつくる話として読む
私、これを野球の漫画として読む前に、部をつくる話として読んでほしいくらいやねん。人を集めて、場所を探して、許しをもらう。投げるのは、そのあと。Interpretation
証明でいえば、定理の前に、まず定義を置く作業ですね。何を「部」と呼ぶのか。そこが決まらないと、試合という式が書けない。Interpretation
ややこしいたとえやけど、言いたいことは分かる。ユウリくんの大道芸も、最初は場所探しからやろ?
ええ。立っていい角を探すのに、一年かかりました。だから、愛好会のくだりは、僕も少し胸に来ます。Preference
ほな、校長の顔が出てくるとこから読も。あの人がしゃべる前の間、ユウリくんが数えて。
『H2』は、野球をいったん取り上げてから始まる野球漫画。愛好会から部になるまでの数歩を追うと、マウンドに立てることがどれだけ手間のかかることか、見えてくる。