平日の昼、下町の古本屋。軒先のワゴンに、イツキが買い取ったばかりの漫画の束を並べていると、頭の上で小さなドラゴンの形のドローンが止まりました。タモツと、相棒のギアドラです。いつもの「デュエル!」の声がしても、今日のイツキは両手がふさがったまま。代わりに、束のいちばん上の一冊を差し出しました。囲碁の漫画でした。
打てない少年の手に
デュエル!……って、今日は両手ふさがってるな。それ、囲碁の漫画か?
昨日まとめて入ったんです。中身は、僕からは言わないことにしてます。最初の何ページかだけ、ここで開いてみてください。
……じいちゃんの家の、古い碁盤か。オレ、囲碁は石を並べたこともないぜ。Observation from the work
『ヒカルの碁』は、ほったゆみが原作、小畑健が作画を手がけた囲碁の漫画で、2003年まで『週刊少年ジャンプ』に連載されました。主人公の進藤ヒカルが祖父の家で出会ったのは、一つの古い碁盤でした。そこに宿っていた平安時代の碁打ち・藤原佐為の霊が、ヒカルに取り憑きます。佐為は江戸時代にも、名手として知られる本因坊秀策に憑いていたことがあり、望みは「神の一手」にたどり着くこと。その姿はヒカルにしか見えません。囲碁と縁のなかったヒカルは、佐為にせがまれ、言われるままに石を置いて碁を打ち始めます。Fact[1]
打ったことのない子の手に、ずっと昔の強い人の手が重なる。最初のところだけで、それが分かるのがいいんです。Interpretation
考えるのは佐為で、石を持つのはヒカル。カードでいえば、横に相棒がいて「次はそれだ」って言ってくれるやつだな。オレ、そういうの弱いんだぜ。Interpretation
盤の向こうにいたプロ
監修として作中の碁を見ていたのは、梅沢由香里。囲碁のプロの女流棋士です。Fact[1]
僕は碁を打てないんですけど、プロが見ていたと聞くと、分からない盤の上にも安心して乗れる気がします。分からないのは僕のほうで、盤のほうは本物なんで。Preference
分かるぜ。知らないカードゲームでも、ルールを作った人が横で見てると思うと、思い切って一枚目を出せる。Preference
ルールより先に人がいる
作中には囲碁の専門の言葉も出てきますが、そうした言葉やルールを知らない読者でも話が追えるように工夫されている、と紹介されています。英語圏の書評の一つでも、専門の言葉は出てくるものの、勝負は石の打ち方の仕組みより打つ人どうしの話として描かれているので、遊び方を知らなくても読める、と書かれました。Fact[1]
ここが、僕がこの漫画を人に渡したくなるところです。打てない僕でも、誰が誰に追いつきたいのかは、ちゃんと伝わってきます。Interpretation
ルールを全部しゃべる前に、まず一戦やってみせる。イツキが土曜の夕方に店の前でやってることと同じだな。Interpretation
説明が長くなると、初めての人の顔が曇るんですよね。だから僕は、決まりは一戦の途中で一個ずつ足すことにしてます。Preference
オレは逆に、説明しすぎて止められる側だぜ。
タモツの頭の上で、ギアドラが「止めるのはボクの役目です」と小さく言いました。
一話のあとの小さな教室
この漫画はテレビアニメにもなり、2001年から2003年まで放送されました。アニメでは本編のあとに短いコーナーがついていて、監修の梅沢由香里が、初めての人に向けて碁の打ち方の基本を話していました。Fact[3]
物語の中では説明しないで、終わったあとに遊び方だけ置いていく。オレ、これ好きだぜ。観終わって手がうずうずしてるときに、ちょうど教えてくれるんだからな。Preference
漫画のほうは、分からないところを読む人に任せてる気がします。分からないまま、次のページへ行っていい。アニメは、盤のそばにもう一人、先生を座らせた。どっちも、知らない人を置いていかないやり方だと思います。Interpretation
碁盤を探した子どもたち
連載とともに、囲碁を始める子どもが増えました。日本だけでなく海外でも出版され、とくに小さな子どもたちのあいだで囲碁を打つ人が広がったといわれます。Fact[2]
読んだ子が、次の日には家の碁盤を探してたってことか。ずっと好きでいるものの入口って、だいたいそういう一冊なんだぜ。Interpretation
その子たちが大きくなって手放した本が、いま店に戻ってきてるんだと思います。この束も、背の割れ方を見ると、何回も開かれてるんで。Grounded inference
前の持ち主、碁を打つようになったかな。
それは、この本には書いてないです。……一巻目、ワゴンの端に置いときます。打てない人のほうが、たぶん先に最後まで読めるんで。
じゃあ、打てない人の代表として座らせてもらうぜ。読み終わったら、碁盤の代わりにデッキで一戦な!
『ヒカルの碁』の碁は、プロの女流棋士が監修した本物。それでも囲碁の言葉を知らなくても話が追えるように描かれ、打てない人にも「誰が誰に追いつきたいか」は読める。