よっしゃ、ゲンだ。今日はアニメ映画『海獣の子供』の二周目の話をする。一周目の俺は、光と渦に飲まれて、終わったら口が開いたままだった。何が起きたか、半分も分かってねぇ。でも二周目は、分かんなくても見るとこがはっきりあった。最後まで観た人向けだ。展開にかかわるとこは畳んである。聞き手はガク。話が難しくなったら、俺が止める。
二周目を始める前に
原作は五十嵐大介さんの漫画で、『月刊IKKI』に2006年2月号から2011年11月号まで連載された。映画は2019年6月7日公開、上映時間111分。監督は渡辺歩さん、脚本は木ノ花咲さん、音楽は久石譲さん、制作はSTUDIO 4℃。キャラクターデザイン・総作画監督・演出は小西賢一さんだ。Fact[1]
主人公の琉花は、自分の気持ちを言葉にするのが苦手な中学生。部活で問題を起こして、夏休みに入ってすぐ部活禁止になる。母親とも距離があって、学校にも家にも居場所がない。知ってる人のいない海を探して東京に行き、海という不思議な少年と出会う。Fact[1]
ゲンさんがこの映画を選ぶのは分かる気がする。海の話だから。
それもある。けどな、一周目は正直、溺れた。二周目でやっと浮き方が分かった。Preference
Up to midway中盤までの道のりTap to open
琉花は父親が勤める水族館で、水槽の中を海の生き物と一緒に泳ぐ海と再会する。海は幼いころ、もう一人の少年とともにジュゴンの群れの中で見つかった子だと、父とジムから教えられる。そのあと、海の兄として育った空と出会う。母が水族館に来ると、琉花は海と空と一緒に水族館のクルーザーを勝手に持ち出して海へ逃げ、ジンベイザメが光になって消えていくのを目撃する。Fact[1]
冒頭のハンドボールの場面
琉花はハンドボール部。口より先に手が出て、チームメイトや対戦相手とたびたびトラブルを起こす子だ。Fact[1]
一周目は、乱暴な子だなと思って見てた。二周目は違う。言葉が出ねぇから手が出る。船の上にもいたよ、網が絡まったら口で説明する前に手が動く若い衆が。悪気じゃねぇ。順番の問題なんだ。Interpretation
言葉より先に体が動く子を、言葉の外で起きる出来事の中に放りこむ。入り口の置き方として、よくできていると思う。Interpretation
Ending and reveals結末(ラストの場面)Tap to open
映画のラストは、冒頭のトラブルと対応するように作られたオリジナルの場面だ。原作者の五十嵐さんの要望も取り入れたという。Fact[1]
Ending and reveals結末(ゲンの読み方)Tap to open
だから二周目は、最初の数分を、最後と並べるつもりで見てくれ。言葉より先に動いてた子が、夏のあとで何を先にするか。冒頭の場面は、ただの事件の紹介じゃねぇ。最後の場面の、仕掛けた網だ。俺はそこで、泣けるじゃねぇか……!ってなった。Interpretation
父と母と海の家系
父の正明は水族館の職員で、妻と娘とは別に暮らしている。二人を大事に思ってはいるが、何もしてやれない。母の加奈子も、かつては同じ水族館の職員だった。Fact[1]
ここが一番こたえた。俺も長いこと海の上で、家のことは女房に任せきりだった。そばにいたくてもいられねぇ父ちゃんの顔ってのは、分かる。飯の時間に父ちゃんの席が空いてる家の感じも、分かる。Preference
Up to midway母の生まれ(人物の背景)Tap to open
加奈子は九浦の海女の家系に育った。母親は大海女だったが、後を継ぐのを嫌い、正明と駆け落ちして実家とは絶縁している。娘と同じで、人と関係を築くのが苦手だ。Fact[1]
Up to midway中盤の場面(ゲンの読み方)Tap to open
母ちゃんが水族館に来たとたん、琉花は船で逃げる。一周目は、ただの反抗だと思った。二周目は、海から逃げてきた母ちゃんと、海へ逃げていく娘に見えた。逃げる方向が逆なだけで、似た者どうしなんだ。Interpretation
家族それぞれの背景を知ってから観ると、琉花が海に引かれていくことの意味が一段変わるね。Interpretation
魚の種類ごとの泳ぎ方
海の生き物の描き方には分担がある。人物のまわりを泳ぎ回る場面は手描き、人物の背後や作画のない場面で魚が大量にいるときはCG。魚群の場面では、魚の種類によって違う泳ぎ方を把握して動きを付けたという。実在の魚の泳ぎ方を徹底的に研究して反映したそうだ。Fact[1]
これは漁師の目で見てくれ。群れってのは、種類で動きが違う。二周目、俺は人物じゃなくて、背中側の群ればっかり見てた。網を入れたくなった。Preference
分担を知ると、手描きとCGの継ぎ目を探したくなるね。
探すな探すな。探しても分かんねぇのが、たぶん勝ちなんだ。Interpretation
Up to midway中盤の水族館の場面Tap to open
水族館の水槽で海が魚と一緒に泳ぐ場面は、海のまわりの魚の動きを見てくれ。人物のまわりを泳ぎ回る場面の魚は作画で描く、という作り方だったそうだ。俺には、あの場面の海と魚が同じ呼吸で動いてるように見えた。海が群れの一匹に見えたんだ。ジュゴンの群れの中で見つかった子だってのが、説明より先に体で分かる。Interpretation
浜辺の夜の呼び名
船の上でな、夜の海がぼうっと光るのを何度も見た。理屈は知らねぇ。仲間と、ただ黙って見てた。だから浜辺で二人が夜空を見上げる場面は、他人事じゃねぇんだ。Preference
Up to midway浜辺の夜の場面Tap to open
琉花と海は、浜辺で隕石が空から降り注ぐのを一緒に見る。海は、それを"人魂"と呼んだ。Fact[1]
作品には、世界各地の神話や民俗学、海洋学の要素が盛り込まれている。原作者は連載の始めから、物語の最後は海と宇宙が繋がるようなものにしたいと思っていたそうだよ。Fact[1]
神話や星の話と海の話を、一本の循環としてつなぐ考え方に近くて、制度で言えば……ごめん、またやった。Interpretation
分からん! でも、空と海がつながるってのは、なんか分かる。
短く言うと、空の話と海の話が、だんだん同じ話になっていく。Interpretation
それなら分かる。二周目は、空を見上げる場面ぜんぶが、海の中の場面と同じ顔に見えてくる。Interpretation
琉花の目の届く範囲だけ
映画と原作の構成のいちばん大きな違いは、映画が「琉花のひと夏の体験」という枠組みを採ったことだ。物語は琉花が経験したこと、理解したことの範囲で描かれ、琉花が直接関わらないエピソードは描かない方針が決められた。Fact[1]
僕が二周目で一番面白かったのはここ。町内会で言えば、回覧板の中身を一軒の家の玄関からしか読まない、みたいな設計で、情報の流れとしては……Interpretation
分からん!
……つまり、琉花に見えないものは、観る人にも見せない。Interpretation
よっしゃ、それなら分かる。船の上の俺と同じだ。陸で何が起きてるかは、帰るまで分かんねぇ。Interpretation
Ending and reveals終盤の場面Tap to open
だから終盤、何が起きてるのか分からなくても、それでいいんだと思う。琉花にも全部は分かってない。分からないまま、見届けてる。二周目は筋を追うのをやめて、琉花の顔と、琉花が何を見ているかだけ追ってくれ。一周目に溺れたところで、今度は浮いていられる。Interpretation
手で描かれた波
小西さんは、波や海のような自然現象の表現でも手描きにこだわった。手で描くことはキャラクターにすることで、人や生き物と同じように魂が宿る、という考えだ。自然現象にも登場人物と同じように魂が宿ったような動きを与えることを目指したという。Fact[1]
泣けるじゃねぇか……! 海は生きてるって、漁師はみんな言う。それを本気で絵にしようとした人がいたんだ。Preference
Up to midwayクルーザーの場面Tap to open
クルーザーで海に出て、ジンベイザメが光になって消えていく場面。二周目は、ジンベイザメより先に、まわりの水を見てくれ。作り手は、波みたいな自然の動きにも人物と同じように魂が宿る動きを与えようとしたそうだ。俺にはあそこの波が、人物と同じ顔つきに見えた。海そのものが見送ってるように見えたんだ。Interpretation
夏のあとの場面
一周目の俺は、大きな場面のあとで、もう映画は終わったと思って気を抜いた。それが間違いだった。Preference
Ending and reveals結末(戻ってきた後)Tap to open
映画は、琉花が戻ってきた後の陸での生活の部分を丁寧に描いている。Fact[1]
Ending and reveals結末(ゲンの読み方)Tap to open
ハルにはいつも、帰ってくるまでが冒険だって言ってる。この映画は、帰ってきたあとまでが冒険だった。遠洋から帰った最初の朝、陸の飯の味が妙に濃く感じたのを覚えてる。何も変わってねぇ家で、自分だけ少し変わってる。琉花の陸の暮らしを見ながら、あの朝を思い出した。冒頭と最後が対応してるってのも、たぶんこれだ。同じ場所に戻ってきて、違う手つきで立ってる。Interpretation
最後まで観てから冒頭に戻ると、同じ場面の重さが変わる。構成が観る人に二周目を頼んでいる映画だと思う。Interpretation
おう。二回目のほうが、潮の匂いが濃い。Preference
二周目は冒頭の部活の場面から目を離さずに。言葉より先に動く琉花の手を覚えておくと、映画のぜんぶがその手の話に見えてくる。