「しおりのある部屋」で、ミコがレイに聞きました。作品に助けられたって思った時期、ある? レイは少し黙ってから、働き始めて一年目の冬の朝の話を始めました。作品の展開には触れていません。
誰より落ち着いている人
レイが困ってるところ、あんまり想像できない。仕事のトラブルとか、顔色ひとつ変えなさそう。
変えない。障害対応は落ち着ける。手順があるから。一年目から、それだけは得意だった。
じゃあ、何が困ったの。
落ち着いてるように見えるのが、困った。職場では必要なことしか話さないから、「何を考えてるか分からない人」になってた。初対面だと、仕事の話より先に見た目の話をされることも多くて。そのたびに黙るから、余計に分からない人になる。
本当は言いたいことはあった。この手順は危ない、とか。手伝ってほしい、とか。助かりました、とか。でも、言う前に会議が終わる。言わないまま帰る日が、一年目の秋から冬にかけて、ずっと続いてた。
朝五時のホーム
それで、助けられたっていうのは。
冬の夜に、大きめの障害があった。夜の十時に呼び出されて、復旧したのが朝の四時半。報告を書き終えて外に出たら、まだ真っ暗で。始発まで二十分くらい、駅のホームのベンチで待ってた。
その夜、私の判断で手順の順番を一つ入れ替えて、それで早く戻せた。でも誰にも何も言われなかった。言われないのは普通。私も何も言わなかったし。……ただ、ホームで、自分が何を感じてるのか分からなくなった。うれしいのか、悔しいのか、疲れてるだけなのか。
朝五時の気持ちって、だいたい名前がつかないよ。私も夜型だから分かる。
ホームは寒くて、自動販売機で温かいお茶を買って、両手で持ってた。スマートフォンの電池は残り一割くらい。眠いのに、目だけ冴えてて、頭の中ではさっきの手順がずっと再生されてた。
それ、いちばん眠れないやつだ。
そのとき、前に誰かに勧められて、電子書籍で買ったまま開いてなかった漫画を思い出した。それが『ギヴン』。
『ギヴン』第1巻の紹介文では、ギターもバスケも、上ノ山にはくすんで見え始めている。好きだった、おもしろかったはずなのに。そこへ壊れたギターを持った真冬が現れ、偶然聴くことになった真冬の歌が、上ノ山の胸に刺さります。事實[1]
空白のコマが多かった
どこが効いたの。
最初に思ったのは、台詞のないコマが多いってこと。問いかけたあと、相手がすぐに答えない。何も言わない顔が、一コマ、二コマ続く。私は、その空白を飛ばせなかった。始発を待つあいだ、一ページずつ止まって読んでた。作品中的觀察
恋愛の話だってことは、知ってて読んだの?
知ってた。紹介文にもそう書いてある。好きなジャンルだし。でも、あの朝の私に効いたのは、恋愛のところより、言葉が出てくるまでの間のほうだった。そこは自分でも意外だった。
好きなものに、思ってなかった方向から助けられるの、あるよね。
あの空白は、何も感じてない時間じゃなくて、感じてることが多すぎて言葉が追いつかない時間として描かれてる。少なくとも、私にはそう読めた。それで、ホームのベンチの自分も、たぶん同じなんだって思えた。名前がつかないのは、何も感じてないからじゃない。解讀
そこなんだよ。黙ってる人が空っぽだと思われるの、ほんとに腹立つ。
言葉の前に届くもの
もう一つ。この作品は、気持ちが言葉より先に別の形で届いてしまう話なの。壊れたギターを直すとか、歌が聞こえてしまうとか。言葉にできなくても、届く経路はある。解讀
それを読んで、私には報告書があるって思った。口では言えなくても、報告書なら書ける。その朝、電車の中で、送ったばかりの報告書に一行足した。「手順の順番を入れ替えた判断の根拠は以下」。それから、もう一行。「対応中に監視を引き継いでくださった方、助かりました」。
引き継いでくれた人、いたんだ。
いた。隣の席の先輩。男の人。……正直、職場の男の人はみんな、見た目の話しかしないと思ってた。
嫌いでいいけど、雑に扱うのは別。「みんな」でまとめたら、その先輩も一緒に消えちゃうよ。
……うん。それは違ってた。その先輩は、あの夜、私の判断について一言も外見の話をしなかった。その日のうちに、報告書の一行に「了解、次も頼みます」って返事が来た。それだけ。でも、それで十分だった。
なら、その先輩のことはその先輩として覚えときな。
うん。……ミコに言われると、ちゃんと刺さる。
返事は遅くていい
その朝、家に帰ってからは?
始発に乗って、一巻を読み終わるころに最寄り駅に着いた。家に着いたのが六時前。カーテンを閉めて、そのまま昼まで寝た。起きたら、報告書の一行に返事が来てた。そこで初めて、ちょっと泣いた。疲れてたのもあると思う。
泣いていいやつだよ、それは。
作品が報告書を書いてくれたわけじゃないけど。
うん。書きはじめる場所まで連れていってくれた、くらい。作品の中の人たちも、返事がすごく遅いの。でも、遅くても返事をする。それを見てたら、私も遅くていいから、何か返そうと思えた。言えないことを、言わないまま終わらせるんじゃなくて。解讀
いまの小さな習慣
いまは? 職場で、まだ無口?
無口。それは変わらない。でも、大きな対応が終わったら、報告書の最後に一行だけ、誰かに向けた言葉を書くようにしてる。「助かりました」とか、「ここは次から相談させてください」とか。口では言えないことも、一行なら書ける。
最初は、その一行を書くのに十分くらいかかってた。いまは一分。早くなったんじゃなくて、遅くてもいいって決めたら、かえって手が止まらなくなった。
あと、朝五時に名前のつかない気持ちになったら、漫画の空白のコマを一つ思い出す。何も言えないのは、何も感じてないからじゃない。……今の、長かった?
長くない。ていうか、職場でもそのくらい話せばいいのに。
それは無理。ミコこそ、自分の部屋の床に積んである段ボール、いつ片付けるの。
……それも無理。
言葉にならない日は、何も感じていない日ではありません。口で言えないことは、一行だけ書いて渡してみる。返事は遅くても届きます。