閉店の音楽に追い出されるように、二人はカフェを出た。終電まで十八分。駅までは、ゆっくり歩いて十二分。
テンちゃんは元気?
元気。最近、私が寝たあとに、本を読んでるみたいなの。朝になると、しおりが少し進んでる。
推測だけど、スイが寝ぼけて読んでる。
そうかも。……そうじゃないかも。
冬のイベントの衣装、決めた。カノンの衣装も手伝ってるから、型紙が二人分。
レイは、手伝うとき、何も言わないで手伝うよね。
言うと、相手が遠慮するから。縫い目は、黙ってても通じる。
六分余る。
余らせる?
余らせない。話の途中だから。
レイは仕事帰りで、肩に小さなリュック。中身はノートパソコンと、充電器と、予備の充電器。スイの鞄には、文庫本が一冊と、なぜか折りたたみ傘が二本入っている。
そう。待って、さっきの続き。あの二人。ここから私の解釈ね。片方はたぶん、自分が救われてたことに気づくのに、相手よりずっと時間がかかる。音のほうが先に届いてて、言葉があとから追いつくの。言葉より立ち位置。スタジオで、どっちがどっちのほうを向いて立ってるか。あそこ、一回止めて見てほしい。
私も、あの場面は好き。……でも、それは描いてあった?
描いてない。だから解釈。
うん。私は、描いてないところは、空けておきたいの。そこに私の気持ちを置くと、あの子の沈黙を、私の都合で埋めちゃう気がして。
空けておくのも、解釈だよ。
スイは少し考えてから、うなずいた。坂の途中の自販機が、二人の横顔を白く照らして、すぐに後ろへ下がっていく。
……そうかも。空けておく、っていう読み方をしてるんだね、私。
でしょ。私は埋める。スイは空ける。どっちも公式じゃない。そこさえ分けておけば、喧嘩にならない。
レイのそういうところ、助かる。
……今の、長かった?
ちょうどよかった。
坂の途中、シャッターの下りた花屋の前を過ぎる。明日の入荷を知らせる手書きの紙が、雨よけのビニールの下で少し波打っていた。
スイは、誰かを好きになるところ、名前がつく前と後なら、どっちが好き?
前、かな。まだ何の気持ちか分からないとき。
私は後。名前がついたあとに、二人がそれをどう扱うかを見たい。……仕事と一緒。障害って、名前がつくまでがいちばん怖いけど、名前がついたあとのほうが、人の性格が出る。
障害に、性格が出るの?
出る。夜中の三時に、どの順番で何を確かめるか。人によって全然違う。だから私、関係も手順で見ちゃうのかも。誰が先に、どこを確かめたか。
それは、すごくレイらしい読み方だと思う。私は、そう受け取った。
……それ、褒めてる?
褒めてる。
スイは、黙ってる人の味方だよね。作品の中でも、外でも。
味方、なのかな。黙ってる人が、黙っていたいのか、言えないだけなのか、そこを分けたいだけ。分けないで助けると、その人の黙る自由まで取っちゃうから。
……それ、障害対応にも欲しい考え方。鳴ってないアラートが、静かなのか、壊れてるのか。
レイは、何でも仕事につながるね。
スイは、何でも気持ちにつながる。
残り十四分。塀の上の黒い猫が、二人が通りすぎるのを最後まで目で追っていた。
レイのスマホが、短く二回震えた。仕事の呼び出しの鳴り方だった。レイは歩く速さを少しも変えずに画面を開き、親指だけで何かを打ちこみ、四十秒で閉じた。
大丈夫?
大丈夫。見張りの仕組みが一つ、勘違いして鳴っただけ。明日の朝、設定を直す。
落ち着いてるね。
仕事はね。手順どおりにやれば、だいたい終わるから。
その直後、もう一度スマホが震えた。今度は鳴り方が違った。画面を見たレイが、坂の途中で完全に立ち止まった。
待って。待って待って待って。
また呼び出し?
違う。推しの新情報。……待って、無理。いま一秒も落ち着けない。
さっきの四十秒の人と、同じ人?
同じ人。だから困ってる。
どんな情報?
言えない。言ったら、明日の朝まで落ち着けない人が二人になる。
私は、たぶん落ち着いてる。
スイは落ち着いてるふりがうまいだけ。
スイが笑った。レイも笑った。撮影のときに作る顔とはまるで別の、くしゃっとした顔だった。残り九分。
私のスマホ、あと二パーセント。
貸す。充電器、二つある。
二つも。
一つは予備。予備がないと眠れない。
私は、傘が二本ある。
それは予備じゃない。たぶん誰かの。
……そうかも。
レイは歩きながらリュックから充電器を出し、スイのスマホにつないだ。線が一本、二人のあいだに渡る。歩幅がずれると抜けてしまうので、二人とも少しだけ、歩くのが遅くなった。
スイは最近、何読み返してる?
3月のライオン。前は、誰かを助けることと、助けられることの話として読んでたの。でも今回は、助けられた人が、助けてくれた人に何を返すのか、のほうが気になって。
返す。
うん。お礼を言うとか、何かを渡すとかじゃなくて。……元気でいること、とか。そういう返し方もあるのかなって。
それ、スイがいま誰かに返したいものがある顔してる。
……少し考えてから、返事するね。
出た。
小さいころね、フルーツバスケットの一冊を友だちに貸したら、戻ってこなかったの。言い出せなくて、同じ巻をもう一冊買った。
言えばよかったのに。
言えなかったから、二冊になった。でも、二冊あると、片方をまた誰かに貸せるでしょう。それはそれで、よかったの。
……それは違う、って言いたいけど、言えない。いい話だから。
八パーセントになった。ありがとう。
それ、終電まで持つ。
スイがケーブルを外して返す。レイはそれを、くるくると同じ太さに巻いてから、リュックの決まったポケットにしまった。
駅の明かりが見えてきた。改札の手前で、スイが鞄の中をのぞき、あ、と小さく言った。
これ。レイの傘。先月、たぶん私が持って帰ってた。
探してた。会社に置き忘れたと思って、もう一本買った。
ごめんね。ずっと鞄に入ってたのに、気づかなかった。
傘が、手から手へ渡る。ちょうどそのとき、駅前のアスファルトに、ぽつ、と黒い点が一つ落ちた。二つ、三つ。
……降ってきた。
大丈夫、私、もう一本ある。……あれ、これも誰のだろう。
スイ。
うん。
それは、ちゃんと持ち主に返して。で、これは持ってて。
レイは、受け取ったばかりの自分の傘を、スイの手に戻した。
でも、いま返したばかり。
次に会うとき、また返して。返すものがあると、次の約束が勝手にできるから。……今のは、私の解釈。
……公式にしてもいいよ、それ。
発車のベルが鳴りはじめる。レイは改札を駆け抜け、階段の途中で一度だけ振り返って、スマホの画面をスイに向けて振った。推しの新情報のほうの画面だった。
スイは傘を二本抱えて、自分のホームへ降りていった。部屋では白い猫が待っている。たぶん今夜も、開いたままの本のしおりが、朝までに少しだけ進んでいる。
ホームで、スイは充電が九パーセントになったスマホを開き、レイに短く送った。「さっきの、少し考えてからの返事。返したかったのは、たぶん傘じゃなかった」。既読は、電車が動きだす前についた。