目錄
二本目は『ゴッホ~最期の手紙~』。画面のすべてが油絵で、しかもそれが動く。最初に観たとき、思わず鼻をくんくんさせてしまいました。テレピン油の匂いがするんじゃないかと思って。物語の謎には触れません。筆の跡と、それを描いた人たちの話をさせてください。ゴッホの絵が好きな人にも、絵にまったく詳しくない人にも、入口はちゃんと用意されています。
日曜日の小さな映画館
観たのは、大学を出てイタリアに渡ってからです。平日はモデルの仕事と、アパレル会社の事務所の仕事。服の絵を描いて、生地見本をめくって、夜は同僚とおいしいものを食べに行く。毎日は楽しかった。La vita è bella、祖母の口ぐせそのままの暮らしでした。喜好
ただ、日本に置いてきたものが一つだけあった。油絵です。イタリアに持ってきたのは、スケッチブックと鉛筆だけ。ある日曜日、小さな映画館の前を通りかかって、ポスターの渦巻く青い空に足を止めました。映画が終わるころ、僕は暗い客席で、置いてきた夢と目が合ってしまったんです。喜好
どうやって作られたか
作品の公式サイトによると、この映画は俳優で撮影した映像の上から、文字どおり一コマずつ絵の具で描いて作られています。描いたのは、ポーランドのグダニスクとヴロツワフ、そしてアテネのスタジオに集まった画家たちです。公式サイトは、ゴッホの物語は彼の絵なしには語れないから、その絵を動かす必要があった、と説明しています。事實[1]
一コマずつ、って聞くと気が遠くなるね。描いた人たちは、どんな言葉で話しながら描いていたんだろう。
ノアらしい問いです。違う国の画家たちが一つの部屋に集まって、同じ画家の絵を動かすために描く。言葉が違っても、筆の動かし方なら通じ合えたのかもしれない。僕はそう想像するのが好きです。解讀
好きな理由その一 筆の跡が動く
止めて見ると、どのコマにも絵の具の盛り上がりと、筆が通った方向が残っています。空は渦を巻き、麦畑の線は風の向きに流れる。動かすと、その筆の跡が一枚ごとに少しずつずれて、画面全体がふるえるように息をする。作品中的觀察
油絵を描いた人なら分かると思うけれど、絵の具は乾くまで待たないと次が描けないし、塗り直すほど色がにごる。それを一コマずつやる。しかも、他人の絵を動かすために。僕なら三日で逃げ出します。だからこそ、ふるえる画面の一枚一枚に、描いた人の我慢と喜びが見える気がするんです。解讀
好きな理由その二 絵の中の人が歩き出す
美術館で見たことのある絵の中の人たちが、次々に画面に現れて、しゃべり、歩く。椅子に座っていたあの人も、額の中から静かにこちらを見ていたあの人も。画集でしか知らなかった人に、声と体温が与えられる。作品中的觀察
僕がつい見てしまうのは、やっぱり服です。上着の色、帽子のかたち、襟のくたびれ方。絵の中では止まっていた布が、動くと重さを持つ。ああ、この上着は思ったより厚い生地なんだな、と分かる瞬間があって、それが楽しくてたまらない。喜好
好きな理由その三 色の置き方
この映画では、ゴッホの絵の色づかいがそのまま画面に生きています。色が強く響く場面があるぶん、静かな場面での色の抑え方も目に残る。色を引くことで、ほかの色がもっとまぶしくなる。服の組み合わせでも同じで、派手な柄を生かすのは、となりに置いた無地なんです。解讀
僕の見方 寄り添って描くことの敬意
画家たちは、自分の絵を描くのではなく、一人の画家の絵を動かすために描いたことになります。それは窮屈な仕事に見えるかもしれない。でも僕には、深い敬意のかたちに見えるんです。誰かの絵に寄り添うには、その人がなぜそこで筆を止めたのか、なぜその色を置いたのかを、自分の手で考え抜かなければならない。解讀
服の世界でも、古い仕立ての上着をほどいて、縫い方を一つずつ確かめることがあります。昔の職人の手の跡をなぞっていると、会ったこともない人と話している気分になる。この映画を観ていると、その感覚を思い出します。手の跡は、時間がたっても消えない。誰かがなぞれば、またそこで息をしはじめるんです。喜好
苦手かもしれない人への入口
全編が絵の具で動くので、最初は目が慣れなくて落ち着かないかもしれません。そういう人は、最初の十分だけ、物語を気にせず「空」だけ見てください。空の筆の跡が動き出したら、もう目は慣れています。ゴッホのことをよく知らなくても大丈夫。観終わってから画集をめくると、知っている顔がたくさんいて驚きますよ。喜好
ほかの6選と
手で描いた線を消さずに動かす、という点では『かぐや姫の物語』と兄弟のような一本です。そして、絵を描くことの苦しさと喜びをそのまま見せてくれる点では『ブルーピリオド』とつながっています。画家を目指していたころの自分に、絵の具の匂いごと観せてやりたい。……いや、いまは服で描いているから、それで十分か。喜好
最初の十分は空だけを見る。筆の跡が動き出したら、そこから先は絵の中を歩けます。
