閉店後の原宿の店。工房の作業台をはさんで、レンがルカーノにたずねました。「しんどかった時期って、ありました?」。ルカーノが話したのは、東京に戻って会社で働きづめだったころの話。夜中に支えになったのは、ゲームの『GRIS』です。物語の展開には触れていません。
ミラノから帰ってきた冬
ルカーノさんって、いつ会っても楽しそうなので、聞いていいのか迷ったんですけど。しんどかった時期って、ありました?
あるよ、もちろん。イタリアから東京に戻ってきて、会社で働いていたころだね。君とはあのころ、ほとんど会ってなかったな。
僕はちょうど仕事を始めたばかりで、自分のことで手一杯でした。
朝の九時に会社に入って、気づいたら終電。一日じゅう、売れる服の絵を描いていた。来年の春に流行りそうな色、去年よく売れた形。悪い仕事じゃなかったんだ。むしろ勉強になった。ただ、描いても描いても、自分の線じゃない気がしてね。
モデルの仕事は、そのころは?
東京に戻ってすぐ、やめた。時間もなかったし、正直に言うと、もう人に着せてもらう側じゃなくて、着せる側になりたかった。やめたら、おいしいものを我慢する理由もなくなってね。体はどんどん大きくなった。これは楽しい記録だから、気にしないで。
でも、絵のほうはね。美大で描いていた油絵は、実家から運んできて、部屋の隅に立てかけたまま。描きかけの一枚の上に、布をかぶせてあった。帰ってきて、電気をつけると、まずその布が目に入る。毎晩ね。
……それは、きついですね。
きついって言えるほど、何かがあったわけじゃないんだ。誰にも怒られていないし、仕事もある。ただ、部屋の中も、自分の中も、色がだんだん薄くなっていく感じがした。……ま、それでもいいさ、って毎晩言い聞かせてたよ。
夜中の二時のゲーム
そこで、ゲームですか。ちょっと意外です。
僕も意外だった。ゲームはほとんどやらなかったからね。会社の後輩が「ルカーノさん、これ絶対好きですよ。絵が水彩なんです」って画面を見せてくれた。その一枚に、ひと目で負けた。
開発したノマダ・スタジオの公式サイトでは、『GRIS』は、人生のつらい経験に向き合う、希望を失わない少女グリスの物語と紹介されています。悲しみの中を進む旅は彼女のドレスに表れ、そのドレスが、色あせた世界を進むための新しい力をくれる、とも書かれています。事實[1]
ドレスが力になる。ルカーノさんのためにあるような設定ですね。
でしょう? 終電で帰って、シャワーを浴びて、夜中の二時くらいにコントローラーを握る。部屋の明かりを落として、布をかぶせた油絵に背を向けて。少女が歩きはじめると、ドレスの裾が水彩のにじみみたいに揺れるんだ。僕はしばらく、先に進まずに、裾が揺れるのだけ見ていた。喜好
色がひとつずつ戻ってくる
遊んでいて、どこが効いたんですか。
一つ目は、色の戻り方だね。最初の世界は、ほとんど色がない。そこに、少しずつ色が戻ってくる。一気にじゃないんだ。一色ずつ。戻ってきた色が、その前の灰色の世界をちゃんと覚えているような、静かな戻り方をする。解讀
あのころの僕は、全部いっぺんに取り戻そうとしてたんだと思う。画家の夢も、モデルのころの自分も、イタリアの楽しかった毎日も。そんなの無理に決まってる。でもこのゲームは、一色でいいって言ってくれた気がした。今日は一色、取り戻せばいいって。解讀
一色ずつ、ですか。
二つ目は、急かされないこと。公式サイトにも、危険やいらだちや死のない体験だと書いてある。失敗して最初からやり直し、ということがない。仕事で一日じゅう締め切りに追われていた僕には、それがありがたかった。夜中の二時に、誰にも急かされない場所がひとつある。それだけで、明日も会社に行けた。解讀
ノマダ・スタジオの公式サイトには、『GRIS』は危険やいらだち、死のない体験であり、繊細なアートと細やかなアニメーション、優雅なオリジナルの音楽で命を吹きこまれた、緻密に設計された世界を探索する、と書かれています。事實[1]
三つ目は、ドレスそのもの。これはもう職業病だけど、あのドレスの形が、場面ごとに少しずつ違う役目を持つんだ。服が気持ちを語って、服が人を前に進ませる。会社で売れる服ばかり描いていた僕は、服って本来こういうものだったよな、って思い出した。解讀
布をめくった夜
それで、何か変わりました?
劇的には何も。次の日も終電だった。ただ、ある夜、ゲームを止めたあとに、ノートを開いて、自分のための服の絵を一枚描いた。誰に売るためでもない、色をいっぱい重ねたやつ。それから毎晩、一枚ずつ描くようになった。一色ずつ、ね。
そのノートが何冊かたまったころ、仕立屋の映画を観て、独立を決めた。最後に背中を押したのはあの映画だけど、押せる背中にしてくれたのは、夜中の二時のゲームだったと思う。
油絵の布は、めくったんですか。
……それは、まだ。いまはアトリエの奥にしまってある。いつか、ね。ほら、色のない顔をしていた男が、いまはこんな柄の上に柄を重ねて着てるんだから。人生、悪くないよ。
そのシャツ、今日は何色重ねてるんですか。
数えてごらん。全部言えたら、君のライブ衣装に使いたい色を教えてあげる。
いまの小さな習慣
ルカーノはいまも、どんなに忙しい日でも、寝る前に一枚だけ、誰のためでもない服の絵を描く。色は一色だけ増やす。昨日より一色だけ多く。その習慣は、あの夜中の二時から続いているそうです。
一色ずつ、っていいですね。僕は何かを始めると、全部の色を一度に決めないと気がすまなくて。ノートの付箋の色分けも、最初に全部決めて、結局どの色が何だったか忘れるんです。
知ってるよ。小学生のころから、地図の凡例を最初に全部作って、なくしてたもんね。でもそれも君の色だ。順番に増やしていけばいい。僕の店の色も、最初は三色しかなかったんだから。
三色。いまの店からは想像できないです。
一晩に一色。何年も続けたら、こうなった。Bellissimo、でしょう?
全部いっぺんに取り戻さなくていいんだよ。色がなくなったと思ったら、今日はひとつだけ、好きな色のものを身につけてみて。靴下でもいい。それで十分、世界は少しだけ美しくなるから。喜好
取り戻すのは、一日に一色でいい。