6選の四本目は、劇場アニメの『この世界の片隅に』です。物語の話より先に、この映画がかかっていた客席の話をさせてください。私が劇場という場所を、いちばん深く信じられるようになった一本です。
学生生活の最後の冬
学生生活の最後の冬でした。働く側ではなく、客として、切符を自分で買って観に行きました。初めて観た回は、平日の夕方で、空いている席のほうが多かったと思います。それでも終映後、明かりがついても、すぐには立ち上がらない人が何人もいました。コートを膝に置いたまま、しばらく画面のほうを見ている。エンドクレジットの最後の一行が消えても、まだ動かない。アルバイト先の劇場では、終映後すぐに席を立つお客さんのほうが多いことを知っていたので、あの静かな座り方がずっと気にかかった。それで私は、次の週もその劇場へ行きました。喜好
どんな映画か
原作は、こうの史代さんの同じ題名の漫画。それを劇場用のアニメにした日本の映画で、片渕須直さんが監督と脚本を、MAPPAが制作を担っています。事實[1]
映画は、広島の海辺の町で暮らす幼いすずの姿から始まります。やがて十八歳になったすずは、縁談を受けて、軍港のある町の呉の北條家へ嫁いでいく。暮らしに要る物は、少しずつ手に入りにくくなる。それでもすずは、あれこれ知恵をしぼって、一日一日を過ごしていきます。事實[1]
音楽を担当したのはコトリンゴさん、主人公のすずに声をあてたのは、のんさんです。事實[3]
週を追うごとに変わる客席
何より心に残っているのは、この映画が、私の目の前で客席に育てられていったことです。二回目に行った週は、前の週より明らかに人が多かった。三回目には、祖母くらいの年の人と、高校生らしい二人連れが同じ列に並んでいました。だれかが観て、だれかに話して、その人がまた別のだれかを連れてくる。通っていた劇場では、年が明けても、春が近づいても、この映画はまだかかっていました。客席の熱は数字に映るのか。いまの私が考えつづけている問いの、最初の手がかりはこの冬にあります。喜好
観たい人が先にいた映画
二つ目は、この映画が、観たい人の声に押されて作られたことです。映画づくりのためのお金が、インターネットで広く募られ、たくさんの人がそれに応えました。いわゆるクラウドファンディングです。事實[1]
ふつう、客席は映画ができあがってから集まります。この映画は、できる前からもう客席があった。劇場で働く人間として、私はそこにいちばん胸が熱くなります。完成を待っていた人たちの「観たい」が、そのまま公開のあとの口コミにつながっていったように、私には見えました。客席は、映画が始まってからできるものだと思っていた私にとって、それは小さな発見でした。映画の前に座る人たちが、映画そのものを呼び寄せることもある。あの冬、ロビーで「やっと観られた」と小さく言って入っていく年配の人を見かけました。待っていた時間ごと、席に座りに来た人の顔でした。解讀
やわらかい声と音
三つ目は、耳ざわりのやさしさです。すずの声は、ゆっくりで、少しのんびりしていて、聞いていると肩の力が抜けていく。音楽も、場内いっぱいに鳴り響くというより、客席の一人ひとりのそばで小さく鳴っている感じがしました。大きな音の映画が好きな私が、この映画では、音が小さいことの強さを知りました。前の席の人が鼻をすする音まで聞こえるくらいの静けさで、みんなが同じ暮らしを見ている。あの場内の空気も、この作品の一部だったと思います。喜好
働く側に回ってから
春が来て、私はアルバイトではなく社員として、劇場で働きはじめました。売り場の端末には、毎日の数字が並びます。でも、あの冬に客席で見たことは、その数字の列のどこにも書いてありませんでした。三回目の客の顔、だれかを連れて戻ってきた人の少し得意げな背中、明かりがついても立たない人たち。だからいまも、数字を見る前に、まず終映後のロビーに立つようにしています。同じ人が二度、三度と来ているか。今度はだれと来ているか。それがわかると、その作品が客席でどこまで育っているのか、少しだけ見えてくる気がするんです。喜好
つらそうで迷っている人へ
戦争の映画はつらそうで、と迷う人の気持ちはよくわかります。私も最初はそうでした。入ってみると、ごはんの支度や、着るものの作り直しのような毎日の工夫が丁寧に描かれていて、客席から笑い声が聞こえる場面も何度かありました。つらい場面に身構えるより、まずはすずの毎日を隣で見ているつもりで座ると、私は入りやすかったです。観終わったら、すぐに立たなくても大丈夫です。気持ちが追いつくまで座っていて、それから外へ出ればいいと思います。明かりがついてからしばらく座っている人は、この映画の客席ではめずらしくありませんでした。喜好
6選のなかで
『アイアンマン』では、続きを待つ人の集まる劇場を知りました。客席そのものが作品を遠くまで運んでいくのを目の当たりにしたのが、この映画です。のちに働く側で見ることになる『トップガン マーヴェリック』や『THE FIRST SLAM DUNK』の、何度も足を運ぶお客さんたちの顔。その原型は、たぶんこの冬の客席にあります。喜好
観た人が、だれかを連れて戻ってくる。週を追うごとに埋まっていく客席を、客の一人として見ていられたことが、いまも私の仕事の支えです。
