日曜の昼過ぎ、イトの家の居間。母の昔なじみのミサが遊びに来ていて、座布団のイトのうしろに回りこむと、断りもなく髪をほどいて編みはじめました。イトの膝には、リサイクルショップの棚で見つけた古い漫画が一冊。台所では、シズカがお湯を沸かしています。
噛んだものになる女の子
『ときめきトゥナイト』は、池野恋さんが『りぼん』で描いた漫画です。連載は1982年に始まり、1994年まで続きました。事实[1]
主人公の江藤蘭世は、吸血鬼の父と狼女の母のあいだに生まれた女の子です。蘭世は、噛みついた相手の姿に変身することができます。相手は人でも、ものでもかまいません。そして元の姿に戻るには、くしゃみをするのです。事实[1]
友だちの動画で、「くしゃみで元に戻る女の子」って紹介されてたんです。何それって思って、紙で探してました。やっと一冊ありました。喜好
くしゃみで戻るなんて、決めポーズとしては最低ね。……でも、いいじゃない。体のほうが先に正直になるの、私は好きよ。解读
変身してるあいだ、くしゃみが出ないようにずっと我慢してる顔なのかなって思うと、ちょっと笑えます。解读
人の姿をそっくり借りられるなら、私なら、立ち方のきれいな人を噛むわね。中身が自分のままでも、背中から借りれば、だいたいそれらしく見えるものよ。喜好
私は借りなくていいです。描くほうがいい。人の顔って、借りるより、見て描いたほうが、その人のことが分かる気がします。喜好
恋の話になると黙る
中学に入った最初の日、蘭世は真壁俊という男の子に一目で恋をします。けれど両親は、娘が人間の男の子を好きになることを許しません。俊を好きなライバル、神谷曜子もいて、蘭世の恋は最初から前途多難です。事实[1]
ほら、ここからが本番よ。親に反対されて、ライバルまでいて。邪魔が多い恋ほど、ヒロインの背筋は伸びるの。解读
イトは返事をしませんでした。髪を引っぱられたまま、ページだけをめくります。
あら、黙っちゃった。
恋のところは、読むだけでいいです。私が見てるのは、親に止められたあとの蘭世。言われたことと思ってることが、顔でずれてる気がするんです。そこが長い。解读
そう。私は口で言うほうが好きだけど、ずれてる顔なら、踊りでも一番きれいに見えるところね。喜好
連載と同じ年のテレビ
連載が始まった年の秋には、テレビアニメも始まりました。日本テレビで1982年10月から1983年9月まで放送され、全34話です。事实[1]
アニメはね、正直ちょっと苦手なの。でも、くしゃみの瞬間をどう動かしてるのかだけは、観てみたい気もするわ。喜好
動くと一瞬だと思います、たぶん。紙だと、くしゃみの前のコマで止まれます。解读
止まれるのは、紙のいいところね。振付でも、いちばん大事な形は、一回止めて鏡で見るの。動いてるときは、本人がいちばん見えてないから。解读
じゃあ私、鏡の係ですね。止めて見るのは得意です。言うかどうかは、別ですけど。喜好
描き直しと大人の蘭世
池野恋さんは、この物語をその後も描いています。2002年からは、設定を大きく変えて描き直した『ときめきミッドナイト』の連載が始まり、2009年に完結しました。事实[1]
さらに2021年には、続編の『ときめきトゥナイト それから』が雑誌『Cookie』で始まりました。主人公は、大人になった蘭世です。事实[1]
そこよ、そこ。大人になったヒロインが、もう一回主役に立つの。私はそれがいちばん好き。年を重ねた立ち姿って、若いころより嘘がつけないのよ。喜好
私は、中学の最初の日の蘭世から読みます。大人の蘭世は、私がもうちょっと大きくなってから。……ミサさん、髪、きついです。喜好
はいはい。ほら、できた。編みこみ、似合うじゃない。
引っぱられてるあいだ、くしゃみしたら元の髪に戻るかなって、ずっと考えてました。
戻らないわよ。台所のお母さんに見せてきなさい。
噛めば変身、くしゃみで元どおり。『ときめきトゥナイト』の蘭世は、描き直されても、大人になっても、まだ物語の真ん中にいます。