日常

入江岡駅で心の声を言い合う

ネタバレの範囲 ネタバレなし 『ちびまる子ちゃん』は、主人公と家族の基本の設定(清水の入江地区が舞台の小学3年生、お姉ちゃんがいること、時代設定)と、入江岡駅が出てくる回の題名まで。各話の中身には触れません

『ちびまる子ちゃん』の町、静岡市清水区の入江岡駅へ。まる子みたいに、思ったことを声に出すルールを足したソウタと、そのルールにすぐ負けるゲン。夕方六時のテレビに間に合うように、二人は何度も時計を見る。

こんな人に
子どもと出かけて、帰る時間を何度も確かめた人へ。きょうだいへのお土産を、なかなか決められない子にも。
話している人
ゲン × ソウタ
聖地巡礼 静岡県静岡市(静岡鉄道の新静岡駅から入江岡駅、入江のまちと清水港のあたりまで) 十月の日曜、昼前から夕方五時半まで

新静岡駅のホームで、ソウタは電車を三本見送った。三本とも、ふつうの電車だった。

ソウタ

まるちゃんの電車、来ない。

ゲン

ああ。この線には、まる子の絵の電車が走ってたんだよな。一年だけのはずが、評判がよくて、ずっと延びたって話だ。[1]

ソウタ

じゃあ、なんで今日は来ないの。

ゲン

待ってな、いま調べる。……あー。ソウタ、すまねぇ。その電車な、二〇二三年の三月で走り終わってた。俺がちゃんと調べてなかった。[1]

ソウタ

だって、ぼく、それに乗るって、お姉ちゃんに言ってきたのに。だって……

ソウタの「だって」が三つ目に入ったところで、ゲンはホームのベンチに腰を下ろし、ソウタと目の高さをそろえた。大きな手を膝の上で組んで、しばらく何も言わなかった。

ゲン

……来ねぇもんは、来ねぇ。でもな、ソウタ。こういうとき、まる子ならどうする。

ソウタ

……心の中で、ぜんぶ言う。「なんで来ないのさ」って。まるちゃんは、考えてることがぜんぶ言葉になってるの。

ゲン

それだ。じゃあ今日は、それで行くか。

ソウタ

ねえ、ルール足していい? 何かあったら、一人ひとつ、心の声を言う。でも、まわりの人に聞こえない声で。

ゲン

よっしゃ、乗った!

ソウタ

ゲンさん、いまの声、大きい。

ソウタの母は、駅の改札までソウタを送ってきて、夕方五時半にまた同じ改札で待っていると言って帰った。お姉ちゃんは、今日は来られなかった。ソウタのリュックの中には、お土産を買うための小銭入れが入っている。

四本目の、ふつうの電車に乗った。行き先は入江岡駅。作中の「まるちゃん遠くのしんせきの家へあそびにいく」の回では、この駅が「清水駅」として出てきて、まる子はここから新静岡駅まで乗っている。

ソウタ

じゃあ、ぼくたち、まるちゃんの反対向き。

ゲン

おう、迎えに行く向きだ。

入江岡駅で降りると、まわりは静かな住宅の町だった。この入江のあたりが、作者のさくらももこさんが子どものころを過ごした場所で、物語の主な舞台になっている。

ソウタ

ねえ、まるちゃんのおうちって、どこ?

ゲン

作者の本当の家はな、八百屋だったんだと。でも漫画では、話とあんまり関係ないのと、店を描くのが大変だってんで、ふつうの一軒家に変えたそうだ。[1]

ソウタ

えー。それだったら、ぼくが八百屋、かいてあげたのに。大根とかキャベツとか。

ゲン

ははっ、いいじゃん、それ! ……それとな、その本当の家も、いまはもうねぇんだ。だから探しに行かなくていい。[2]

ゲン

ここらは、みんなが住んでる町だ。日曜の昼で、昼寝してる赤ん坊もいるかもしれねぇ。家の前で止まったり、窓に向けて写真を撮ったりはしない。心の声は、心の声のままでな。

ソウタ

(……ゲンさんの、ふつうの声が、もうちょっと大きい)

ゲン

(……聞こえてるぞ)

二人は声をひそめて、町をひとまわりした。古い塀の上を、猫が一匹、同じ速さでついてきた。ソウタは猫に小さく手を振り、猫は角を曲がって消えた。

ソウタ

ねえ。まるちゃんって、三年生なんだよ。ぼくも、もうすぐ三年生。それに、まるちゃんにもお姉ちゃんがいるの。[1]

ゲン

おう。で、まる子は、お姉ちゃんとケンカするか。

ソウタ

する。でも、すぐなかなおりしてることがあるの。そこがいい。……ぼくも、きのうお姉ちゃんとケンカした。だから今日、来なかったのかも。

ゲンは歩く速さを少しゆるめた。それから、何も言わずにソウタの頭に手をのせた。

昼は、清水港の近くまで歩いて、海の見えるベンチでおにぎりを食べた。清水は、古くから港を中心に栄えてきた町だ。

ゲン

いい港だ。俺が若いころ乗ってた船も、こういう港から長い航海に出た。そのあいだ、船の中で、録画したまる子のビデオを何回も観たんだ。

ソウタ

なんで、まるちゃんなの? 海の話じゃないのに。

ゲン

陸の、なんでもねぇ毎日が観たかったんだよ。じいちゃんがいて、父ちゃんと母ちゃんがいて、姉ちゃんがいて、みんなどっか抜けてる。船の上だと、それがいちばんのごちそうだった。

ソウタ

ねえ、まるちゃんって、いつの話? スマホ、ぜんぜん出てこないよ。

ゲン

昭和49年から50年ごろの話だ。1974年と75年。俺が生まれたのが、ちょうどそのころだ。[1]

ソウタ

えっ。じゃあゲンさん、まるちゃんと同じころの赤ちゃん?

ゲン

おう。まる子が三年生で、俺はおむつだ。

ソウタは笑いすぎて、おにぎりの海苔を膝に落とした。岸壁のカモメが一羽、首をかしげてそれを見ていた。

ゲン

なあソウタ。まる子の家で、いちばんえらいのは誰だと思う。

ソウタ

うーん……いないんじゃない? みんなでやってるもん。おじいちゃんもお姉ちゃんも、ちょっとずつ。いちばんを決めたら、決まらなかった人がかわいそう。

ゲン

(……泣けるじゃねぇか……!)

ソウタ

ゲンさん、それ、心の声じゃない。ふつうに聞こえてる。

帰り道、入江岡駅の近くのお菓子屋さんで、ソウタはお土産を選びはじめた。小銭入れの中身を三回数えて、棚の前を四往復した。ゲンは腕時計を一回だけ見て、それからは見なかった。

ソウタ

あとちょっと。……あとちょっと。……ねえ、ゲンさん。お姉ちゃんの好きなのと、ぼくの好きなの、ちがうの。どっちにすればいい?

ゲン

どっちだと思う。

ソウタ

……お姉ちゃんの。それで、半分こしてって言う。そしたら、なかなおりのルールになる。

ゲン

よっしゃ。それが、今日いちばんの工夫だ。

帰りの電車は、またふつうの電車だった。ソウタは窓に額をつけて、反対側のホームを最後まで見ていた。もう走っていないと分かっていても、見ていた。

ソウタ

(……来なかったのも、数に入れとく)

ゲン

(……おう。乗れなかった電車ってのも、ちゃんと覚えとくもんだ)

五時半ちょうど、新静岡駅の改札の向こうで、ソウタの母が手を振っていた。ソウタは走り出しかけて、振り返った。

ソウタ

ゲンさん、六時、まにあう? まるちゃん、日曜の六時だから。[1]

ゲン

まにあう。走らなくてもまにあう。だから、走るな。

六時を少し過ぎたころ、帰りの電車の中で、ゲンの携帯電話が鳴った。ソウタの母から写真が届いていた。テレビの前に、子どもが二人。お土産の箱が開いていて、中身はちょうど半分ずつ減っていた。写真の下に、一行だけ。「いま はじまった」。ゲンは窓のほうを向いて、太い指で目のはしをこすった。向かいの席の人には、たぶん、心の声まで聞こえていた。

この記事の作品

話した人 ゲン 泣ける話に弱い海の男 ゲンの記事をもっと読む →

次に読む

記事一覧へ

ページの先頭へ