店の奥の作業場には、大きな作業台と、トルソーが三体。壁には布見本がびっしり貼られ、窓ぎわには、布をかけたままの古いキャンバスが一枚立てかけてある。
ミサが入ってくると、ルカーノは巻き尺を首にかけたまま、両手を広げた。
Bellissima! ミサさん、今日も美しい。入ってきただけで、部屋の照明が一段明るくなった。
はいはい。で、締め切りは?
……来週の木曜。今日は仮縫い。袖を通してみて。
作業台の端では、銀色がかったツインテールの女の子が、針山を前に真剣な顔をしていた。カノンだ。ルカーノのアトリエで、針の持ち方から教わっている。
ミサ先生! ごきげんよう……じゃなくて、こんにちは! お、お邪魔しております!
カノン。立ち姿はいいわね。今日も百点。……その針、逆さまよ。
えっ。……今のはリハーサル!
ミサが衣装に袖を通すと、ルカーノの顔つきが変わった。陽気な伊達男の顔が引っこんで、職人の目だけが残る。口に待ち針をくわえ、背中の線に一本ずつ打っていく。
腕を上げて。……もう少し。ここで布が引っぱられると、ターンのときに肩が詰まる。二ミリ出す。
二ミリで変わるの?
変わる。照明の下だと、二ミリの皺が影になって、客席のいちばん後ろまで届くんだ。
カノン、ちょっと立って。そう、そのまま。……ルカーノ、この子の立ち姿、見ておいて。衣装を作るとき、この背中の線を基準にしなさい。
えっ、私の背中が、基準……! ふ、ふつつか者ですが……じゃなくて、がんばります!
Bella. 首から腰まで、一本の線が通ってる。これは教えてできるものじゃない。
教えてできるものよ。この子は、最初の日から誰に言われなくてもできてただけ。……振りはまだまだだけど。
振りは、まだリハーサル中です!
それ、分かるわ。最近観返してるドラマでも、照明と衣装ばっかり見ちゃって。愛の不時着。
あっ、知ってます! 題名だけ……。
韓国のtvNで、コロナがはやりだす直前の冬に放送されたドラマよ。韓国の財閥の令嬢が、パラグライダーで飛んでいたら突然の竜巻に巻きこまれて、北朝鮮に不時着してしまう。そこを助けるのが、北朝鮮の軍人。[1]
2019年12月〜2020年2月放送
恋の話としても最高なんだけど、私が見返してるのは服。場面が変わって服が変わるたびに、同じ人の立ち方まで違って見えるの。私にはそう見える、っていうだけだけど、そこばっかり巻き戻しちゃう。
Esatto! その通り。服が変わると、人は立ち方を変える。立ち方が変わると、言葉が変わる。だから衣装は、台詞の前に話し始めてるんだ。
あなた、それ若いころモデルの現場で私が言ったことでしょう。
……そうだった。姿勢と顔の作り方、全部ミサさんに叩きこまれた。
カノンは二人の会話を聞きながら、端切れに練習の縫い目を走らせていた。三針目で、針が床に落ちた。
……苦しゅうない、拾う。……じゃなくて、拾います!
カノン、焦らなくていい。最初は、針を落とした回数がいちばん大事な記録なんだ。
じゃあ私、もう三回記録しました! ……あの、ルカーノさん。ずっと気になってたんですけど、窓のところの、布がかかってる絵は何ですか?
ルカーノの手が、一瞬だけ止まった。それから、待ち針を一本、トルソーの肩に刺した。
昔の油絵。美大のころ、画家になるつもりで描いてたんだ。……描いてるうちに、絵の中の人の服ばかり気になって、気づいたら服のほうに来てた。
絵を描く楽しさに目覚めた子が、美大受験の予備校や入試で悩みながら、それでも描き続ける話。……読むたびに、あの布を、少しだけめくりたくなる。[2]
めくればいいじゃない。
……ま、それでもいいさ。
ミサはそれ以上言わなかった。言い切ったら最後まで見届けなきゃいけない。それを知っているから、ミサは言うときと言わないときを選ぶ。かわりに、鏡の中の自分の背中を見て、短くうなずいた。
わ、私も、最近ずっと観てるアニメがあって! ラブライブ!です!
アニメね。……正直、私はまだ少し苦手なのよ。
大丈夫です、ミサ先生でも観られます! 廃校寸前の母校を救うために、九人の女の子がスクールアイドルのグループを作って、がんばるお話なんです。テレビアニメの第1期は、私がピカピカの一年生だった冬に放送されてました。[3]
第1期は2013年1月〜3月放送
主人公の穂乃果ちゃんが、学校のアイドルが全国で流行ってるって知って、自分たちでもやろうって決めるところから始まるんです。[3]
学校を救うために歌って踊る。……発想は嫌いじゃないわね。
それで、私がいちばん好きなのは、最初のライブなんです。……あの、ここから先はまだ観てない人には言えないので、聞きたい人だけ。
Up to midway第1期 序盤の展開(最初のライブ)Tap to open
最初は三人だけで活動を始めて、新入生歓迎会のすぐあとに、講堂でファーストライブをやるんです。でも、幕が開いても、客席には誰もいなかった。
それでも、アイドル好きの子と、その友だちが駆けつけてくれたのを見て、穂乃果ちゃんはライブをやるって決めるんです。[3]
私、あそこで毎回泣きます。小さいライブハウスで、お客さんが数えられるくらいの日でも、いちばん後ろに誰かが立っててくれたら、それで歌えるので。
ミサは鏡ごしにカノンを見た。カノンは針山を握ったまま、照れたように笑っていた。
……そう。一話だけなら、観てあげる。衣装と照明のところは、ちゃんと見るわよ。
本当ですか! 苦しゅうない……じゃなくて、ありがとうございます!
Brava, カノン。ミサさんにアニメを観させたのは、僕の知るかぎり君で二人目だ。
一人目はアカリよ。生徒に勧められると、断れないの。
衣装を脱いだミサが帰ったあと、ルカーノは待ち針の位置を型紙に写していった。カノンはその横で、端切れに十針目を縫い終え、顔を上げた。縫い目は曲がっていたが、一つもほどけていなかった。
いいね。曲がってるけど、引っぱっても負けない。それがいちばん大事。……カノンの衣装の型紙、今日は袖を一枚ぶん、引き算してみよう。
えっ、羽根は残してもいいですか!
羽根は残そう。かわりに、リボンを三つ減らす。
カノンが型紙と真剣ににらめっこしているあいだに、ルカーノは窓ぎわのキャンバスの前を通りかかった。足を止めて、布の端をつまみ、ほんの少しだけ持ち上げた。何色の絵かは、カノンの席からは見えなかった。ルカーノはすぐに布を戻して、いつもの陽気な声で言った。
さあ、続き。La vita è bella。