生徒たちが帰ったあとのスタジオで、イロハだけが床に座ってストレッチをしていた。ミサ先生がスピーカーの音量を上げる。次の発表会で使う曲だという。ベースが走り出し、管楽器がいっせいに飛びこんでくる。
イロハ、八つ数えて立つ。ほら、もう一回。あなた、いま数えるのを忘れて聴いてたでしょ。
……聴いてました。最初の一拍で、部屋の色が変わったんです。黄色っぽい、真鍮の色に。
入口のガラス戸が鳴った。長い筒と平たい箱を抱えた男の人が、半歩入ったところで止まっている。曲のほうを見たまま動かない。
失礼します。ルカーノから、舞台衣装の生地を預かってきました。……すみません、この曲、ビバップですよね。
1998年4月にテレビ東京で放送が始まったテレビアニメ。監督は渡辺信一郎
あら。アニメの曲なの? ジャズのクラスをやってる仲間に借りた音源よ。誰もそんなこと言わなかったわ。
演奏してるのは、シートベルツっていうバンドなの。この作品の音楽のために集まった人たち。[2]
ガク、入口で止まると、ルカーノの箱が先に疲れちゃう。
そうだね。イロハさんがいるとは思わなかった。……生地は、ここに置いていいですか。
そこでいいわ。ルカーノのお使いね、ご苦労さま。で、あなたもこの曲が好きなの? 入口で固まるくらいに。
好きです。ジャズが軸なんですけど、一本の作品の中で、まるで別の国の音楽みたいな曲が次々に出てくるんですよ。[1]
だから振りがつけにくいのね。八カウントで割ろうとすると、途中で曲のほうが先に行っちゃう。
私は、先に行っちゃうところが好き。追いかけてる間、体が少し前に倒れるの。
あなたは前に倒れすぎ。背筋は残して、気持ちだけ追いかけるの。
ガクは箱を壁ぎわに置いて、少しだけ肩の力を抜いた。
僕にとっての菅野さんは、攻殻機動隊のS.A.C.のほうなんです。電脳の犯罪を追う公安9課の話で、監督は神山健治さん、制作はProduction I.G。[3]
2002年10月から放送されたテレビアニメ
ガクがいつも話してるやつ。
あの作品は組織の話でもあるから、普段の僕ならすぐ仕組みの説明を始めるところなんだけど、あの曲が鳴ってる間だけは口が止まる。食堂でいうと、開店前に寸胴の湯が沸く音を聞いてる時間で、その音がだんだん――
いまでも朝、家族が起きる前の台所で、トーストを焼きながらサントラを一枚だけ流す日があるんです。焼き上がる音と、曲の切れ目が重なると、ちょっと得をした気がする。
はいはい、そこまで。湯が沸いたのは分かったわ。あなた、説明してるときより、止まったときの顔のほうがいいわね。
ふふ。先生、それ、ほめてます。
ミサ先生は答えずに、スマホで何かを調べはじめた。画面をスクロールする指が、途中でぴたりと止まる。
……待って。日曜の夜の大河、直虎。あの始まりの音楽、これも同じ人なの?
毎週、スタジオを片づけたあとに観てたのよ。始まりの音楽で、モップを持ったまま一回まわってた。……ドラマの人だと思ってたわ。
先生、アニメの曲で、もうずっと踊ってたんですね。
知らずに踊ってたのよ。それとこれとは別。……ねえ、あなた、直虎は観た? 女が家を背負って立つ話よ。絶対観るべき!
大河は、年表を横に置いて観る派です。……配信で探してみます。
イロハは膝を抱えて、スピーカーのほうを見ていた。曲はもう終わっていて、空調の低い音だけが残っている。
ミサ先生がスマホを置いて、もう一度曲の頭を流した。それから、壁ぎわのガクに向かって手招きをした。
ねえ、あなたも立って。曲の頭だけでいいから。肩を二回、こう。前じゃなくて、上に。
僕がですか。……踊った経験といえば、町内会の盆踊りで櫓の下を三周したくらいなんですが。
ガクは鏡の前に立ち、言われたとおりに肩を上げた。曲より半拍遅れて、二回。イロハは床に座ったまま、鏡の中のガクだけを見ていた。
ガク、半拍遅い。でも、遅れ方が最後までずっと同じなの。それ、いい色。
そうね。遅れるなら、同じだけ遅れて。それなら、もう振りになるのよ。あなた、首から先に動く癖があるわね。
首、ですか。……荷物を運ぶときに、先に行き先を見る癖かもしれません。曲より先に、次の角を見てしまう。
だったら曲の角も見てって言いたいところだけど、この曲、角が多すぎるのよね。
働きはじめてから、配信で観たの。夜中に一話だけのつもりが、セッションの場面で手が勝手に膝を叩いてた。
あれも監督はビバップと同じ渡辺信一郎さんで、音楽が菅野さんだね。ビバップの二人が、また一緒に作った作品なんだ。[6]
うん。私は、ドラムが半拍だけ先に行って、ピアノがそれを笑いながら追いかけるところが好き。音が先に走って、絵があとから息を合わせにくる感じ。
線も、ちょっと揺れてるの。整いすぎてない。ピンポンのときと同じで、私はその揺れのほうに耳が行っちゃう。
イロハさんが最初に一時停止したのは、どの場面?
同級生の女の子の家がレコード屋さんで、そこで三人が音を出すところ。お店の中にこもる音。止めて、巻き戻して、目を閉じてもう一回聴いた。[5]
あなた、目を閉じるのが好きね。レッスン中もときどきやってるわよ。鏡はこっち、って何度言っても。
ばれてました。目を閉じると、先生の足音で次の振りが分かる気がして。
ピアノとドラムね。……あなたが振りを覚えられないの、そのせいじゃない? 曲の中の誰かを、いつも目で追ってるのよ。
……合ってる。いまも、トランペットの人を追いかけてました。
で、準備は? 発表会まで、あと四回のレッスンよ。
耳の準備なら、できてます。
体のほうよ。
三つ並べると、ジャズのバンドと、電脳の街と、戦国の城だ。同じ人の手から出てきたとは、正直まだうまく信じられない。
私は信じられるわよ。どれも、最初の一音で背中を押してくるもの。踊る側には分かるの。
私は、押されたあとに残る色で分かる気がする。ビバップは真鍮、攻殻は夜の水色、アポロンは……古い木の床の色。
僕は耳でも色でもなく、たぶん年表で分かろうとしてるね。三人で、入口が全部ちがう。
ミサ先生がもう一度、再生ボタンを押した。ベースが走り出す。ガクは帰りかけた足を止めて、壁ぎわに立ったまま腕を組んだ。
イロハ、もう一回。今度は数えなくていい。トランペットの人を追いかけて、立ってごらん。
……はい。最初の一拍、目を閉じて入ってみます。