十月の平日の昼。漁から戻ったゲンが手を洗って台所に入ると、コンロの上で中華鍋が低く鳴っていた。子どもたちは学校で、家にいるのは二人だけ。シズカはまな板の上で豆腐をさいの目に切りそろえ、鍋のふちから静かにすべらせた。
お、麻婆豆腐か! 昼から中華とは、いいじゃん、それ!
献立ノートに、今週は中華と書いてしまいましたので。夜にお出しする前の、試しです。
試しを俺が食えるなら、毎日でも試してくれ。……そういや、麻婆っていやぁ、お前が昔好きだったアニメがあったな。料理の勝負をする坊主の。
『中華一番!』ですね。マオくん。……私が筋をきちんと覚えている、数少ないアニメです。
お前、たいていのアニメは二回目でも初めてみてぇな顔して観てるもんな。
ええ。洗濯物を畳みながら観るものは、畳み終わるころには、たいてい忘れています。でも、マオくんのことだけは、鍋を振ると勝手に出てきます。
なら、飯ができるまで、その話を聞かせてくれよ。
先のほうのお話まで、してしまうかもしれません。ゲンさんがまだご覧になっていないところも、よろしいですか。
おう、どんと来い。どうせ途中で鼻をすするのは俺だ。
舞台は清の時代も終わりに近い、十九世紀の中国です。四川の男の子が、料理人としていちばん上の位の特級厨師を目指して、広州の陽泉酒家というお店へ修行に出ます。[1]
日曜の夜か。俺はそのころ、もう船の上だったな。
野球に負けてたのか! カオルに言ったら、腹抱えて笑うぞ。
一週間楽しみにして、テレビをつけたら試合の延長。あの夜の気持ちは、カオルさんには黙っておきます。
鍋の中で、豆板醤の赤が豆腐になじんでいく。シズカは火を少し弱め、お玉の背で底から一度だけ返した。
で、マオってのは、どういう坊主だ?
素直で、礼儀のきちんとした子です。それが料理の話になると、周りがあきれるくらい夢中になる。お姉さんの前でだけ、少しくだけた顔も見せます。[1]
私の育った家は、行儀にとてもうるさい家でした。だから、きちんと頭を下げる子が、鍋の前でだけ我を忘れるのが、うらやましかったのだと思います。
行儀のいい料理ばかか。……それ、お前のことじゃねぇか。
……ゲンさん。
……はい。
このアニメ、料理の場面がとにかく大げさなんです。一口食べたとたんに後ろで大波が立ったり、ふたを取ると金色の光があふれたり。[1]
ははっ! 大波なら任せとけ。うまいもん食うたびに波が立つなら、俺の船の上は毎日時化だ。
マオくん自身も、ときどき神様や、こわもての親分さんのふりをして、相手の前に出ていきます。料理を出し終えてから、最年少の特級厨師だと名前が明かされて、周りが驚く、という流れも何度か。[1]
最後に正体が分かって、みんなひれ伏すやつか! 黄門様じゃねぇか。親父が夜によく観てたぞ。
ええ。印籠の代わりに、お皿が出てきます。
それでいて、料理の監修には料理の専門学校が入っていたそうです。大げさな波の手前で、包丁や鍋の手つきは本物を見せてもらっていたのでしょう。[1]
で、お前はマオのどこが気に入ってる? 料理の腕か、根性か。
ここから先は、マオくんのおうちの事情のお話です。少し重いので、畳んでおきますね。
Up to midway序盤の展開Tap to open
シズカ「マオくんのお母さんは、パイさんという方です。四川でいちばんの国営のお店、菊下楼の総料理長で、四川の仙女と呼ばれた料理人でした。その人が、手塩にかけて育てた一番弟子のショウアンさんに裏切られて、大きな借金を負い、働きすぎがもとで亡くなってしまう。マオくんの物語は、そこから動きはじめるんです」
シズカ「アニメのショウアンさんは、十年もパイさんのもとで修行したのに、とうとう認めてもらえなかった人として描かれます。荒れた日に火傷で左目を失って、店を出ていきました」
シズカ「麻婆豆腐の勝負の前に、アニメでは炒飯の勝負があります。マオくんはそこで、お母さんの炒飯をそのまま作ってみせる。それで、店の総料理長の座をかけた勝負に進めることになります」
シズカ「……私、その回を観た次の日曜に、家で炒飯を作りました。ひとりで台所に立ったのは、あれが初めて。見事に焦がしました。父は何も言わずにお皿をきれいにして、ごちそうさま、とだけ」[1]
……お義父さんがか。あの人が、黙って全部。俺の前じゃ、いまでも天気の話しかしねぇ人だぞ。
料理の話は、いまも父とはしません。でも、あのお皿がなかったら、私は台所の道に進まなかったと思います。
皿で返事するお義父さんか。俺には真似できねぇな。絶対なんか言っちまう。
修行先のお店にも、言葉を使わない人がいました。マオくんの師匠になるチョウユさん。入門の日に、マオくんが持ってきた推薦状で鼻をかんでしまいます。[1]
鼻を! なんだそいつ。俺が漁協の書類でそんなことしたら、お前に何て言われるか。
最初の課題で、マオくんが作った青梗菜の炒めものに、箸ひとつつけません。あのお店に入る人が、みんな通る習わしなのだそうです。[1]
父は焦げたものを全部食べて、チョウユさんは出されたものに手をつけない。反対のことをしているのに、私には両方とも返事に見えました。
食わねぇのが返事か。……分からん! 船で言うと、徹夜で網を直したのに、親方が見もしねぇってことだろ。俺ならへこむぞ。
見ていないふりをして、ずっと見ている人です。入門してからは、包丁の技と火の扱いを、徹底して仕込みますから。[1]
そのお店の総料理長のルオウさんが決めた伝統も、変わっていて。伝統を覆すことが伝統なんです。守らなければいけない味などない、いつも工夫で古い味を打ち破れ、と。[1]
私の実家は、守るものばかりの家でした。箸の置き方も、お正月の家訓も。あのころの私には、遠い国のお話に聞こえて……少しだけ、胸がすっとしました。
守るもんだらけの家と、ひっくり返すのが決まりの店か。で、お前はどっちを選んだんだ。
両方です。家訓はお正月に毎年読みますし、献立は毎晩、少しずつ変えています。
ははっ、そりゃ欲張りだ。……でもな、うちの元日の正座だけは、ひっくり返さなくていいぞ。足がしびれても、あれはいいもんだ。
それに、広州の大食い大会で十年続けて勝っている覆面の人、という顔もお持ちです。出てくるたびに、何か召し上がっています。[1]
決めた。俺はそのチョウユに乗る。でかい図体で、しゃべらねぇで、よく食う。他人とは思えねぇ。
ゲンさんは、よくしゃべりますけれど。……マオくんは、お父さんの姿を知らずに育った子です。チョウユさんは、そのマオくんにとって、二人目の父親のような人になっていきます。[1]
……二人目の親父か。俺が船に乗ってたあいだ、うちのチビたちの二人目の親父は、たぶん台所のお前だったな。
あらあら。私は母の役で、手いっぱいでしたよ。
はっはっは! 違ぇねえ。
鍋の中で、豆腐がふるえるように揺れている。シズカは水溶きの片栗粉を回し入れ、鍋をゆっくり揺すった。ゲンは黙って炊飯器のふたを開け、上がってきた湯気に目を細めた。
修行のあと、マオくんは大きな試験を受けます。ここも、畳んでおきます。
Up to midway中盤の展開Tap to open
シズカ「マオくんは十三で、いちばん難しいと言われる広州の特級厨師の試験に、いちばん若くして受かります。予備の試験では、麺で国士無双を表しなさい、という課題。本番では、ナマズを使って、麺なのに麺ではないものを、という課題でした」
シズカ「その試験の途中で、マオくんは味が分からなくなってしまいます。料理人の舌が、いちばん大事なときに。手を貸してくれたのが、同じ試験を受けていたフェイくん。二人とも合格します」
シズカ「アニメのフェイくんは、幼いころに両親を裏料理界に殺されて、放浪の途中でパイさんに助けられた子です。マオくんのお母さんが昔だれかに差しのべた手が、何年もたってから、息子さんの試験の台所に戻ってくる」
シズカ「味の分からない日でも、台所に立たなければいけない朝はあります。熱で何も感じない朝に、お弁当の卵焼きの味を、味見させた子どもの顔で確かめたこともありました。あの回を思い出すのは、そういう朝です」[1]
……畳んだとこ、聞いたぞ。しんどい日に、隣に誰かいてくれるってのは、ありがてぇもんだ。
ゲンさんは、隣に誰もいなくても、熱のある日に海へ出ていきますけれど。
……それは今、関係ねぇだろ。網は待っちゃくれねぇ。
マオくんの好きなところを、私は長いあいだ、料理で人を幸せにする子だから、と言ってきました。いまは、もう一つ足します。人に助けてもらったことを、ずっと忘れない子だから。
恩を返しに来るやつは、港に何べんでも帰ってくる。
ここから先は、終わりのほうのお話です。ショウアンさんのこと。
Ending and reveals結末に近い展開Tap to open
シズカ「ショウアンさんは、麻婆豆腐の勝負に負けて四川を追われ、裏料理界に入ります。そして、もう一度マオくんの前に現れる。アニメには、題に『大海に死す』とつく回があります」
シズカ「大人になってから原作の文庫で読みましたら、こう描かれていました。最後の勝負にも負けて、船ごとマオくんを道連れにしようとする。けれど、自分を助けようとするマオくんの姿に、パイさんの面影を見て、心を入れかえる。パイさんの料理書をマオくんに託して、故郷には帰らないと言い、燃える海へ沈んでいきます」
シズカ「その料理書を、ショウアンさんは最後まで懐に入れて、大事にしていました。認めてもらえなかったと思い続けた人が、師匠の書いたものだけは手放さなかった」
シズカ「私の献立ノートも、もう何十冊になったか分かりません。誰に読ませるつもりもないノートです。でも、もしこの中の一冊を、誰かが最後まで持っていてくれたら……。あの場面を読んだ夜は、ペンがしばらく止まりました」[1]
……泣けるじゃねぇか……!
潮だ、潮。今日は風が強ぇ。
ゲンは首にかけた手ぬぐいで目元をこすり、窓のほうを向いた。窓の外の松は、ほとんど揺れていなかった。
叱るのは、言葉がなくてもできます。認めるのも、言葉がなくてもできる。あの人には、その言葉にならない分が、届かなかったのかもしれません。
届いてたと思うぜ。言葉がなくたってな。
……そうですね。ゲンさんの読みのほうが、やさしい。
最後に、アニメの終わり方のお話を。これも畳みます。
Ending and reveals結末(アニメの最終盤)Tap to open
シズカ「アニメは途中で原作に追いついてしまったので、終わりのほうはアニメだけのお話になっています。原作で戦うことになる強い相手とは、アニメでは戦わないまま幕を閉じます」
シズカ「フェイくんは、両親の仇を討とうと裏料理界の本部へ向かい、逆に捕まって、丸薬で心を操られてしまう。皇帝陛下の前での料理の勝負で、マオくんは伝説の厨具を使って、毒を消すスープを作ります。それで、フェイくんが自分を取り戻す」
シズカ「いちばん大きな舞台で、勝つための一皿ではなく、友だちを元に戻すための一杯を出す。最終回の題は『大逆転!栄光の勇厨師たち』。私の中には、勝ち負けより、あのスープのほうが残りました」
シズカ「それから、このアニメが終わったことで、日曜の夜に二十年あまり続いた日本アニメーションの枠も、そこで終わったそうです。祖母の家で観ていた古いアニメたちと、同じ家の続きのように思っていたので、台所の灯りをひとつ消したような気持ちになりました」[1]
畳んだとこ、聞いたぞ。結局、台所の話だな。チビたちが熱を出した日の、お前の鶏の汁を思い出した。
あれは、勝負ではありません。
俺には勝負に見えるぞ。熱が下がるか、お前が先に倒れるかの。
火を止めると、台所が急に静かになった。シズカは大皿に麻婆豆腐をあけ、粉山椒をひとつまみ、指先から落とした。
十四の私は、マオくんのように、誰かを幸せにする料理人になりたいと思いました。いまの私は、パイさんのほうを考えます。働きすぎた人のことを、誰が、どんなふうに覚えているのか。
……お前は、働きすぎなくていい。
はい。……まずは、ごはんにしましょう。ゲンさん、お茶碗を。
ゲンが茶碗を差し出すと、シズカは白いごはんを山に盛り、その横に小皿を一枚だけ並べた。夜の分の、味見の皿だった。