十月の土曜、午後三時。原宿の裏通りにあるルカーノの店は、表の売り場に客が二組いるだけだった。奥のアトリエの作業台には、角のすり切れた古い生地見本帳が開いてある。
エマは見本帳の余白に、鉛筆で小さく日本語を書き込んでいた。色見本の横に添えられた、フランス語の走り書きの訳だ。最後のページを書き終えると、鉛筆を置いて背筋を伸ばした。
終わった? Grazie、助かったよ。それに、エマさんの鎖の重ね方、いいね。細いのを、長さを少しずつずらして重ねてる。引き算が上手だ。
恐れ入ります。訳はすべて書き込みました。七ページ目の、雨の日に染めた、という一行だけは、意味は合っておりますが、言い回しに自信がございません。
雨の日の染め。いいね、布は天気を覚えてるんだ。その一行のために、この見本帳を買ったようなものさ。
ルカーノはエスプレッソを二つ淹れて、一つをエマの前に置いた。エマは両手を膝にそろえてから、小さく頭を下げて口をつけた。
さっきから、見本帳の下に別のスケッチブックが見えてるよ。ピンクの髪の子だね。
……お目に留まりましたか。来週の上映会で『アーケイン』を流しますので、その前に描き直しておりまして。
僕も一つ目のシーズンは二回観たよ。一回目は物語、二回目は服。二つ目のシーズンは、まだなんだ。
さようでございますか。……あの、ヴァイのお話をさせていただいても、よろしいでしょうか。二つ目のシーズンの中身まで、申し上げてしまうかと存じます。
どうぞ。ネタバレは構わないよ。僕は二回観る人間だからね。一回目の楽しみ方を、先に君から聞いておく。
ありがとうございます。それでは、入口から。
舞台は、魔法の技術が進んだ豊かな地上の街ピルトーヴァーと、その下に広がる、貧しくて暴力が支配する地下の街ゾウンです。原作はゲームですが、お話はゲームより前の時代を描いた、この作品だけの物語でございます。[1]
ヴァイと妹のパウダーは、両親を亡くして、ヴァンダーという方に、自分の子として育てられております。そのあと、ヴァイが仲間たちと上の街に盗みに入ります。[2]
私が二つ目のシーズンを観たのは、高校の最後の秋でした。日本の大学に出す書類を書いていたころで、毎週、少しずつ届くのを待っておりました。[1]
シーズン2は2024年11月9日から配信。各シーズン9話を三幕に分け、1週間に1幕・3話ずつ配信
少しずつ。連載の雑誌を待つみたいだ。
ヴァイは、パウダーの姉で、守る側の人です。衝動的で、頑固で、どんなに手ごわい相手にも向かっていく。話し合うより拳で片をつけるほうが多い、と公式の紹介に書かれてしまうくらいで。[3]
拳で片をつける。エマさんの道場と同じだ。
いえ、空手は、拳を出す前に礼をいたします。……そこが、ヴァイとはいちばん違うところでございます。
それでも私が最初に好きになったのは、拳ではなくて、ヴァイの人の呼び方でした。
上の街の執行官のケイトリンのことを、ヴァイは何度も、カップケーキ、と呼ぶのでございます。[6]
英語で聞くと、からかい半分、照れ半分の音がいたしまして。訳す側としては、これがいちばん訳しにくい。……Nice、じゃなくて、大変よろしい呼び方だと存じます。
ははは、今のは本音のほうだね。甘いものの名前で人を呼ぶ人は、たいてい本人が甘いものに弱い。
……否定はいたしかねます。
ここから先は、畳ませていただきます。一つ目のシーズンの、最初の幕の終わりです。重いところです。
Ending and revealsシーズン1の第一幕の終わりTap to open
エマ「最初の盗みのあと、仲間のマイロは、パウダーを連れてくると何でもだめにする、とヴァイに申します。そのうえ、上の街を倒したい地下の大物シルコが、子どもたちのあとをつけさせておりました」
エマ「やがてヴァンダーがシルコに連れ去られて、子どもたちは助けに参ります。でも、罠でございました。ヴァイの腕っぷしなら、ヴァンダーを助けて逃げられるかもしれない、というところで、パウダーが、みんなを助けたくて、あの青い石で爆発を起こしてしまいます。その爆発で、仲間のマイロとクラガー、それにヴァンダーまで亡くなってしまいます」
エマ「打ちのめされたヴァイは、泣き叫ぶパウダーに、お前はジンクスだ、マイロの言ったとおりだ、と言って、妹を置いて行ってしまいます。そのあとシルコがパウダーを見つけて、パウダーは、自分は前の家族に不運しか運ばないと思いこんで、ジンクスという名前を名乗るようになります」[2]
訳す人間として、この一語がずっと胸に引っかかっております。英語のjinxは、悪い運を運んでくる人や物のことです。日本語でジンクスと申しますと、縁起をかつぐほうの意味にも使いますよね。同じ音でも、刺さり方が少し違うのでございます。
一度通した糸は、抜いても布に針の穴が残るからね。
穴が残るから、同じ穴にもう一度、糸を通せるとも申せます。
おや。いまのは、職人の言い方だ。
次は、一つ目のシーズンの後半です。
Up to midway中盤の展開(シーズン1の後半)Tap to open
エマ「大きくなったヴァイは、上の街の執行官のケイトリンと組んで動いております。ヴァイは評議会に、シルコと戦ってほしいと訴えますが、聞き入れてもらえません。それでジェイスのところへ参りますと、ジェイスがアトラス・ガントレットという手袋を作っておりました。もとは、地面の裂け目で採掘をする、ふつうの人たちのために作られた手袋でございます」
エマ「ヴァイはそれをはめて、ジェイスと一緒に地下の街へ乗りこみます。そして、シルコの腹心のセヴィカと戦います。セヴィカのほうは、シマーを打ちこんで強くできる義手。拳と拳の場面です」
エマ「採掘の道具が、拳になります。子どものころ、道場の先生に、拳は道具ではない、と言われたことがございまして。でもヴァイは逆で、道具が拳になる。どちらが正しいかではなくて、ヴァイには、それしか持ち物がなかったのだと存じます」
ルカーノ「仕事着を、戦いの服に仕立て直すわけだ。服でいえば、作業着の裏に晴れ着の裏地を縫いつけるような話だね。働く人の手袋だったことを、ヴァイの拳は忘れていないと思うよ」[2]
二回目に観るとき、手首ばかり見てしまいそうだ。
次が、一つ目のシーズンの結末です。
Ending and revealsシーズン1の結末Tap to open
エマ「ヴァイがセヴィカを倒して、シルコのところへ向かおうとしたとき、後ろからジンクスに襲われます。目を覚ますと、シルコと一緒に、食卓に縛りつけられております。ジンクスは、縛ったケイトリンまで連れてきて、ヴァイに選ばせるのでございます。自分か、ケイトリンか」
エマ「シルコは、ジンクスに、お前は娘のようなものだと言って引き留めます。けれどケイトリンが縄を抜けて撃ち合いになり、ジンクスは、はずみでシルコを撃ってしまいます。ヴァイは、また父親代わりを失った妹を、なだめようとします」
エマ「でもジンクスは、盗んだ石を自分のロケットに込めて、上の街の評議会へ撃ちこみます。ちょうど、ゾウンとの和平を支持する票を入れようとしていた評議会でございました」
エマ「私、気に入った場面は止めて描き写す癖がございます。でも、この食卓だけは、一度も止められませんでした。止めたら、ヴァイが選ばなきゃいけない時間が、絵の中でずっと続いてしまう気がして」[2]
おや、止められなかったのか。それが、いちばんの感想だね。
次のシーズンに入る前に、一つ聞いていいかい。エマさんは、ヴァイのどこがいちばん好きなの。
守り方が、下手なところです。上手に守れる人より、下手でも守るのをやめない人のほうが、私は……目が離せません。
僕は、そこは少し違う見方だな。守るのが下手な人は、守る相手を、自分の型紙に合わせて裁とうとする。パウダーは、ヴァイの型紙からはみ出したくて、もがいてたようにも見えるよ。
……それは、痛いところでございます。でも、型紙からはみ出した布を、ヴァイは捨てなかった。そこだけは、申し上げておきたいです。
Esatto。そこは同じだ。
二つ目のシーズンの始まりです。
Up to midway中盤の展開(シーズン2の始まり)Tap to open
エマ「パウダーはもういないと受け入れて、ヴァイは、自分が生み出してしまった怪物、ジンクスに向き合うと決めます。妹がどれほど危ないか知っておりますから、ケイトリンと組んで、頼まれた執行官のバッジを身につけます」
エマ「地下の街の子が、上の街の執行官のしるしを胸につけるのでございます。ヴァイの声を演じた方は、たくさんの傷を抱えて、いつも上手にではないけれど、それに向き合い続けるヴァイを見てきた、と話しておられました」
ルカーノ「バッジは小さいのに、いちばん重い服だね。着た瞬間に、どっちの側の人間か、周りが勝手に決めてしまう」[4]
二つ目のシーズンの、最初の幕の終わりの回は、題名がとても好きでございます。英語ではFinally Got the Name Right。日本語では、やっと名前を呼んだね。[1]
シーズン2第3話「やっと名前を呼んだね(Finally Got the Name Right)」
英語のほうは、ようやく正しい名前を言えた、という意味です。日本語のほうは、呼んだね、と誰かが誰かに話しかけています。訳した方は、名前を正しく言うことより、呼ばれた側の耳を選んだのだと思います。
呼ばれた側の耳。いいね、それは一枚の布の表と裏だ。
Up to midway中盤の展開(シーズン2の第一幕の終わり)Tap to open
エマ「その回で、ジンクスは、地下の街にある古い精霊の神殿の跡に、ヴァイを誘い込む罠を張ります。ヴァイは、昔のパウダーはもう死んでいて、ジンクスはその思い出を汚すものだと思いこんで、自分が生んだ問題に片をつけるつもりで向かいます」
エマ「神殿は、灰色の柱が崩れた静かなところなのに、その柱に、蛍光色の落書きが描かれております。ジンクスの人生でいちばん大事な瞬間の数々です。作った方々は、静かで穏やかな神殿をキャンバスにして、ジンクスの絵を際立たせたかった、と話しています」
エマ「描く人間として、ここは悔しいくらいです。妹の日記が、姉の通る道の両側に貼ってあるようなものでございます。私には、ヴァイがそれを一枚ずつ読まされているように見えました」[5]
いいね。描く人の悔しさが、少し分かる気がするよ。
あと一つだけ、畳ませてください。二つ目のシーズンの真ん中です。
Up to midway中盤の展開(シーズン2の第二幕)Tap to open
エマ「第二幕のヴァイは、地下の街で、殴り合いと、飲みすぎと、眠れない夜をくり返す、自分を壊していくような日々に入ります。髪を黒く染めて、荒れた化粧をして。妹とも、ケイトリンとも仲たがいして、大事にしていたものを全部なくして、上の街にも地下の街にも居場所がございません」
エマ「作った方々は、ヴァイは自分の目立つところ、髪の色と入れ墨を隠して、自分が得意なただ一つのこと、戦うことの中に自分を見失うだろう、と考えたそうです。通りと寝床の色は、ヴァイが飲みすぎているお酒と同じ、嫌な黄色。闘技場には、攻撃的で冷たい白い光」
ルカーノ「髪を染めるのは、いちばん早い変装だからね。モデルの仕事をしていたころ、撮影で髪を真っ黒にされた日があった。駅で、友だちに素通りされたよ。自分の顔の置き場所が、一日だけなくなった」
エマ「私は、闘技場の場面がいちばんつらかったです。始まりの礼も、終わりの礼もない。拳を、相手ではなく自分を罰するために使っている。空手をやっている人間として、ここだけは目をそらしたくなりました」
ルカーノ「僕は、隠すための服を悪いとは思わないよ。隠せる服があるから、外に出られる日もある」
エマ「……それは、そうかもしれません」[5]
表の売り場で、ドアのベルが鳴った。ルカーノは一度だけそちらを見て、客がハンガーを手に取ったのを確かめると、作業台に向き直った。
最後のことは、畳んでも申し上げません。ルカーノさんの一回目に、取っておきたいので。
作った人は、最初からはっきりした結末を決めていて、物語は二つ目のシーズンで閉じる、と話してたね。[4]
メイキングの記事も読んだんだ。一つのデザインに二十回描き直しが入ることもあって、仕上がるまでに三週間から三か月かかる。最初のスケッチの勢いに惚れて、その勢いを残すために何か月も働くこともある、って。[5]
僕はこの話がいちばん好きでね。一枚の絵の向こうに、何晩ぶんの手があるのか。
……ルカーノさんらしいお話です。
地下の街の土なのか、拳の跡なのか、働いた手のしるしなのか。私は、まだ一つに訳せておりません。
訳さないで、しばらく持っておけばいい。いい言葉は、だいたいそうだ。
ところで、その鎖。一本ずつ、違う街のものなのかい。
はい。住んだ街ごとに、一本ずつ。……日本の一本は、まだ買っておりません。
うちの店にも細いのが……いや、これは売り込みになるね。……ま、それでもいいさ。
いつか、こちらで選ばせていただくかと存じます。
それまでに、このスケッチのヴァイの手を、描き直しておきます。爪の先まで。