楽器を持ち込める部屋で、ジンとレンが次のライブの音合わせをしていた。二時間で交わした言葉は「そこ」「ああ」「もう一回」の三つだけ。音がぴたりと合うと、二人とも同時に、少しだけ顎を引く。
八時すぎ、ドアが開いた。両手にコンビニの袋を提げたソウマと、その後ろから、金髪の女の子が顔をのぞかせる。
遅え。コーラは。
買ってきた。ポテトも。……あと、こっちはエマ。同じ大学の。学食で「ジンさんにパシられてる」って言ったら、ついてきた。
パシリじゃねえ。舎弟だ。
……そっちのほうが悪いと思う。
エマです! 日本のカラオケは何回も来てるけど、アニソンだけの夜は初めて。Nice! ギターもベースもある。本物のバンドの人?
……別に。たまたま弾けるだけだ。
ジンはギターをケースにしまいながら、なぜか背筋を伸ばして座り直した。
僕は歌わないので、入れる係をやります。
え、なんで? ベース弾けるのに。
弾くのと歌うのは、たぶん別の回路なんです。僕が歌うと、全部の音がきれいに半音ずつずれる。ずれ方が一定なので、それはそれで面白いらしいんですけど。
(ソウマに小声で)……一定だから、逆に落ち着かねえんだよ。
本人に言いなよ。
言わねえ。
じゃあ最初、私いい? 知ってるの、これしかないかも。
レンのタンバリンは、本当に一拍も外れない。ジンがそれを横目で見て、何も言わずに自分のマラカスをテーブルに置いた。
スパイの家の話の歌を、スパイものに厳しい人が歌ってる。
厳しいよ? スパイものはだいたい「その距離で尾行したら普通ばれる」って思っちゃう。でもSPY×FAMILYだけは、採点甘くしてる。
甘くする理由は?
だって本題、スパイじゃないもん。全員が何か隠してるのに、ごはんは一緒に食べてる。そっちが本題でしょ? だったら尾行の距離くらい、いいよ。許す。
ミックスナッツって題、うまいよね。殻の違うものが、一つの袋に入ってる。……家族って、たぶんそれくらいでいい。
え、ソウマくん、今すごくいいこと言った。
今のは忘れて。
次、俺。
ジンは前奏の一音目から立っていた。二番に入るところでソファに片足をかけ、サビで体重を乗せた瞬間、クッションごと滑った。マイクだけは、最後まで口元から離れなかった。
大丈夫!?
……今のは演出だ。
今日の一回、もう済んだね。
ジンは何をしても、だいたい一回は派手に転ぶ。ソウマはそれを知っていて、ポテトの皿を最初からテーブルの奥に寄せていた。
注文は、ソウマが壁の電話で済ませた。ジンは端末でメニューを探して戻るボタンを三回押し、黙って端末をソウマに渡していた。
ハニートーストってある? アイスのせたい。
もう頼んだ。アイスも。
え、なんで分かったの。
学食で、毎回デザートから決める人だから。
ねえ、ジンさんとレンさんって、仲いいの?
別に。
普通です。
二人の返事は、ほとんど同時だった。
この二人が音合わせ以外で話してるとこ、俺は見たことない。
Nice. それ、いちばん信頼してるやつじゃん。空手の組手でもね、いちばん強い相手とは、礼のあと何も話さないの。話さなくても分かるから。
……空手やってんのか。
黒帯。
ジンが、もう一段だけ背筋を伸ばした。
チェンソーマンって、どういう話? 教えて?
教えねえ。観ろ。……主人公が、欲しいもんがはっきりしてんだよ。ふつうの暮らしがしたい、とか。そういうまっすぐな奴が、ろくでもねえ世界で暴れる。それだけ聞いとけ。
「それだけ」の選び方、ちょうどいいと思う。何が起きるかは、一個も言ってない。
……お前に褒められても嬉しくねえ。
褒めてない。確認しただけ。
ソウマくんは?
俺はいい。
歌え。
ソウマは三秒だけ迷ってから、端末で一曲を選んだ。前奏が流れた瞬間、レンがタンバリンをそっと膝の上に置いた。
部屋の空気が、一段静かになった。画面の採点バーは低いところで止まったままだったが、誰もそれを見ていなかった。
……ソウマくん、恋してた?
……別に。高校のころ、こういう歌ばっかり聴いてただけ。届かない距離って、メートルじゃ測れないから。
今のは忘れて。
秒速5センチメートルは、最後まで観られたの? ソウマくん、長いのは途中で止めるでしょう。
あれは長くないから観られた。……二時間あると、途中で窓を開けたくなる。
窓?
空気を入れ替えたくなるんだよ。話の。
レンさんの好きなのは? 歌わないなら、教えて?
STEINS;GATE。一回目と二回目で、同じ場面がまるで違って見える作品です。
何が違うの?
それは言わない。言ったら、一回しかない一回目を、僕が先に使っちゃうことになるから。……観るなら、二回目のときに、一話で誰が何を言ってるかだけ、もう一回見て。
(ソウマに小声で)こいつに作品の話させると、そこから長えぞ。
聞こえてる。今日は短くした。
ほんとに短かった。めずらしい。
そのとき、画面の予約欄に一曲増えた。COLORS。送信した端末の名前には、ジンと出ていた。
ジンさん。それは封印した。
知らねえよ、お前の封印なんか。歌え。
封印? What?
ソウマくんの、中学のころの……。いや、僕からは言わない。
一番のソウマは、ほとんど棒読みだった。二番に入ったところで、左手がゆっくり上がり、片目を覆った。サビでは、もう誰の顔も見ていなかった。ジンが拳を突き上げ、レンのタンバリンが倍の速さになった。
え、え、待って、何が起きてるの。
コードギアス 反逆のルルーシュの、オープニングです。主人公が、ある力を手に入れるところから始まる話。……続きは言わない。エマさんが観るなら、一話を観ながら、主人公がまだ何を知らないかだけ見てて。
一個だけヒント出すの、ずるい。観るしかないじゃん。
曲が終わると、ソウマは静かにマイクを置いた。
今のは忘れて。全部。
エマが吹き出した。ソウマの耳が赤くなる。ジンが、少しだけ身を乗り出した。
おい。今の笑いは、どっちだ。
かっこよかったほうの笑い! ほんとに。最後のポーズ、スケッチさせてほしかった。
……ならいい。(ソウマに)忘れねえよ。最高だった。
……入れたの、ジンさんでしょ。
十時を回ったころ、予約欄に、また一曲増えた。a little pain。送信した端末の名前は、またジンだった。
……押し間違えた。消せ。
え、この曲なに?
NANAのエンディング。少女漫画の、バンドの話の。
少女漫画は読まねえ。たまたま知ってるだけだ。消せって。
ソウマが端末に手を伸ばす。その手を、レンが止めた。
消さないで。……キー、二つ下げておきます。そのほうが、ジンの声の低いところが使える。
レンがジンのために何かを変えたのは、今夜これが初めてだった。ジンは何か言いかけて、やめて、マイクを取った。
さっきまでソファを踏んでいた人とは思えない声だった。画面に流れる文字を、ジンは一度も見なかった。
……画面、見ないで歌えてた。
見てた。
見てなかった。
……冷房が強えんだよ、この部屋。目が乾く。
二番の入り、走らなかったね。
……おう。
それだけだった。それでも二人は、ライブのときと同じように、同時に少しだけ顎を引いた。
延長の電話を取ったのはソウマで、精算の列に並んだのもソウマだった。気づけば、全員分の上着とギターケースの持ち手を握っている。
次はいつ? 私、それまでにコードギアスの一話観てくる。あとNANAも読む。
NANAは読まなくていい。
なんで?
……読むなら、全部読め。途中でやめんな。それは契約だろ。
契約、勝手に結ばないで。
駅前で、ジンとレンは反対の方向へ歩き出した。さよならは言わなかった。振り返ったのは、どちらも同じ一回だけだった。