十月の日曜、昼すぎ。商店街のはずれの古本屋で、イツキは100円コーナーのワゴンの背表紙を指でそろえていた。奥の帳場では祖父がラジオを小さく鳴らしている。そこへ、金と黒の上着にサングラスの大柄な男が、肩に小さなドラゴンのドローンを乗せて通りかかった。
男は店の前で足を止め、ワゴンごしにイツキと目が合った。次の瞬間、左腕の円盤のような機械を胸の前に構えた。
デュエル!
通りの向こうの八百屋が振り返った。イツキは眉ひとつ動かさず、エプロンの胸ポケットの横に提げていた小さな箱を外して、両手でタモツのほうへ向けた。
タモツさん、いらっしゃい。貸し出し用でよければ、どうぞ。
さすがだぜ、イツキ。驚かないんだな。
タモツさんが店の前を通るときは、だいたいそれですから。今日は、ワゴンの上を使ってください。
イツキはワゴンの端の文庫本を二列ぶん奥へ寄せて、板の上に空いた場所をつくった。タモツの肩から、ギアドラと呼ばれるドラゴン型の機械がふわりと浮き上がる。
そのドローン、棚のほうへは飛ばさないでもらえますか。風で、文庫の帯がめくれちゃうので。
「承知しました。ボクは電柱の上で待機します」とギアドラが答え、通りの電柱のてっぺんまで上がっていった。
自分のデッキもあるんだけどな。イツキのとこに来たら、イツキの貸すやつで遊ぶって決めてるんだぜ。
それ、うれしいです。今日のは、先月まとめて入ってきた束から組んだやつで。まだ店の外で使うの、初めてなんです。
タモツは箱からデッキを出して、手のひらで重さを量るように一度だけ持ち上げた。カードはどれも、少しずつ色の違うスリーブに入っていた。新しい透明のものもあれば、縁が白っぽく毛羽立ったものもある。
混ざってるな。スリーブ、替えなかったのか。
入ってきたときの袋のままのカードは、袋ごと使ってます。替えるのは、破れてるのだけにしてて。
枚数は?
いいね。オレのデッキも、腕のこいつも、あの漫画を観て育った名残みたいなもんだ。
もともと、漫画の中に出てくるカードゲームをもとに作られたカードですからね。腕にそれを着けてる人と、店の前で一戦できるのは、ちょっと夢みたいです。[1]
二人はワゴンをはさんで向かい合った。イツキは自分の分のデッキを帳場の引き出しから出してきて、カードを切る。タモツはスリーブのすべりを確かめるように、ゆっくり三回切った。
イツキは、タモツがカードの表の面に指を触れず、縁だけをはさんで持っているのに気づいた。大きな手なのに、指先の動きだけがやけに静かだった。
持ち方、きれいですね。
癖だぜ。表に指のあとをつけるなって、若いころにさんざん言われたからな。いまでも、人のカードはこうしか持てないんだ。
一戦目は、思ったより長くなった。タモツは説明しながら出すので手が遅く、イツキは黙って出すので手が速い。途中で一度、タモツは自分の出したカードの効果を読み違えて、イツキに指で示されてから、声を出して笑った。
自転車を押した親子が、ワゴンの前で少しのあいだ足を止めた。父親の後ろから、小さな男の子が場に並んだカードをのぞきこむ。タモツが「いま、いいところだぜ」と小声で言うと、男の子はうなずいて、父親に手を引かれていった。
いまのはオレのミスだぜ。巻き戻しなしだ、続けてくれ。
じゃあ、そのまま。……次のターン、タモツさんの山札、あと何枚かで一枚目の強いのが来る気がします。
読むなよ! オレまで分かっちゃうだろ。
最後の一枚は、イツキの場がそろいかけたところで来た。タモツが山札の上からカードを引き、表を返す前に、二人とも同じ場所を見ていた。そのカードのスリーブだけ、右下の角がほかよりはっきり白く、丸くすり減っていた。
それ、引くっすか。
引いたぜ!
表を返すと、どこの箱にでも入っていそうな、剣を持った戦士のカードだった。それでも、その場のその一枚としては、ちょうど足りた。勝負はそこで決まった。
……負けました。いい引きでした。
オレの腕じゃない。このデッキが勝たせてくれたんだ。……なあイツキ、これ。
タモツは勝ったカードをスリーブごと持ち上げて、軒先の日の光にかざした。イツキも、ワゴンの上に身を乗り出した。
右下の角だけ、こんなに白くなってる。上から引くとき、毎回同じ指で、同じ角をつまんでた人だな。しかもこの一枚だけ、ほかよりずっと深い。
ほかのスリーブは、左の上が少し減ってるくらいなんです。この一枚だけ、引いた回数が違う気がします。
昔、カードの本物と偽物を見分ける手伝いをしてたことがあってさ。すり減り方って、うそをつかないんだ。手の癖も、何回さわったかも、全部残ってる。
本も同じです。何回も開いたページは、背の割れ方で分かります。前の人が、どこで止まって、どこを読み返したか。
イツキはデッキから何枚か抜いて、ワゴンの上に並べた。並べてみると、スリーブの片側だけが、うっすら黄色っぽく日に焼けているものがあった。
これ、片側だけ焼けてますね。窓ぎわの机に、ずっと同じ向きで置いてたのかもしれないです。
窓ぎわの机で、毎日デッキを組み直してたやつか。……いいな。オレも子どものころ、そうしてたぜ。
僕も小学生のころ、一枚だけ角が真っ白になったスリーブがありました。友だちと色をそろえて買ったやつで。……それは、また今度にします。
気になるだろ! 次に来たときは、そっちの話からだぜ。
で、その人の切り札は、たぶんこの戦士だ。いちばん強いカードじゃなくて、いちばん引きたかったカード。引くたびに、角をつまむ指に力が入ってた。
引きたかったカード、ですか。……強いカードの角って、意外とすり減ってないことが多いんです。たぶん、出てこない日のほうが多いんで。
前の持ち主、どんな顔で引いてたんだろうな。オレは、引く前に目をつぶるやつだったと思うぜ。祈るみたいにさ。
僕は、引いてから笑う人だったと思います。角のつまみ方が、急いでないので。ゆっくり引いて、見てから、よし、って。
割れたな。どっちも当たってたら面白いけどな。
出てこない切り札より、毎回顔を出してくれる戦士のほうが、手には残るってことか。
そうなんです。だから、このスリーブを見たとき、組むならこの戦士を入れようって、先に決めてました。
奥の帳場で、祖父のラジオが天気予報に変わった。イツキは帳場のほうへ半歩だけ体を向け、祖父の右側に届くくらいの声で「表で一戦やってるだけ」と言った。祖父は顔も上げずに、ひとつうなずいた。
このスリーブ、替えるのか。もうけっこう白いぜ。
替えないでおきます。破れるまでは、このままで。次に引く人の指が、この角の続きをすり減らしていくのも、いいかなと思って。
続きをすり減らす、か。……オレもちょっと足していいか。
タモツはデッキの山の上からその一枚を取り、右下の角を、親指と人差し指でそっとつまんで一度だけ引くまねをした。それから、元の場所へ戻した。
いまので、何十分の一くらいは、タモツさんの角になりました。
そんなに残らないだろ! でも、まあ、残ったことにしとくぜ。
電柱の上から、ギアドラが降りてきた。「タモツ、次の電車まであと十二分です」。タモツは名残惜しそうにデッキを箱へ戻し、両手でイツキに返した。
どのカードがいくらだとか、前の持ち主がいくらで手放したとか、そういう話は、最後まで一度も出なかった。二人が見ていたのは、角のすり減り方と、日に焼けた片側だけだった。
次に来るときまでに、あの戦士の角、もう少し白くなってるといいな。
なってると思います。土曜の夕方は、初めての人がよく座るんで。そのときの角の具合、次に来たとき見てってください。