6選の二本目は、私が初めて自分の手で買った推理小説です。犯人と、誰がどの順で消えるかは伏せます。代わりに、私がこの本のために作った表と、その表に最後まで入らなかったものの話をします。
地図を買いに入った書店で
初めての出張の夜、駅前の書店に入りました。用があったのは町の地図でした。地図の棚へ向かう途中、文庫の棚の前で足が止まりました。裏表紙のあらすじに、孤島に集められた人々が一人ずつ消えていく、とありました。地図と一緒にその一冊を買い、ホテルの机で読みはじめました。読みはじめてすぐ、私は手帳を後ろの頁から開きました。人物が多く、頭の中だけでは、誰がどこにいたかを保てなかったからです。私が物語のために表を作ったのは、これが最初です。喜好
作者は、イギリスの推理作家アガサ・クリスティ。差出人の見えない招きで、十人の男女が海の向こうの孤島に集められます。そして、古い童謡の歌のとおりに、一人また一人と命を落としていきます。始まりの設定は、それだけです。事實[2]
表は埋まった
私の表は、縦に十人、横に時刻と場所です。島に着いた順。食堂に集まった時刻。夜、自分の部屋へ下がった時刻。読み進めるうちに、欄はきちんと埋まっていきました。この本は、表を作る読者に対して誠実だと私は受け取りました。必要な事実は、読む者の目の前に置かれています。解讀
表のいちばん下の行には、私自身がその頁を読んだ時刻も書き添えました。物語の中の時刻と、ホテルの机の時刻。二つを並べておくと、どの頁で私が長く止まったかが、あとから分かります。この本の表では、最初の晩の頁のところで、私の側の時刻が大きく飛んでいます。何に引っかかったのかは、下の「壁に掛かった手順書」の二つ目に書きました。喜好
ただ、最後の頁を閉じても、一つの欄だけが空いていました。動機の欄です。誰が、いつ、どこで、までは書けた。その横に続くはずの一語が、私の手帳には書けませんでした。書けないものを推測で埋めれば、それは写しではなくなります。だから、空けたままにしてあります。喜好
その欄は、空けたままに。
空けたままです。あなたは、裏表紙のあらすじを指で隠して読む方でした。この本は、隠したほうがよい本です。
……隠して、読みます。
あの夜に読み終えたのは、窓の外が白みはじめるころでした。その朝、私は地図を一度も開かずに仕事へ出ました。道は、前の晩に駅から歩いた順番で覚えていました。表を作る癖は、その朝から、仕事の外にも少しずつ広がっています。この一冊は、いまもホテルの机の端の、読み終えた文庫の山のいちばん下にあります。山が崩れないのは、最初の一冊が下で平らに支えているからです。喜好
壁に掛かった手順書
好きなところの一つ目は、客室ごとに古い童謡が飾られ、食堂の机に小さな人形が並べられていることです。私にはあの歌が、先に書かれた手順書に見えます。何が、どの順番で起きるかが、最初から壁に掛かっている。全員がそれを読める。それでも、誰にも止められない。手順が見えていることが、これほど落ち着かない頁を、私はほかに知りません。作品中的觀察
二つ目は、最初の晩です。集まった全員について、それぞれの過去の罪を告げる声が、部屋に流れます。告げられるのは罪状だけで、審理もありません。私が一番長く手を止めたのは、ここでした。告発は、記録によく似ています。けれど、誰も確かめていない記録です。確かめられていない一行が、島の全員の夜を決めてしまう。この場面は、読み返すたびに手が止まります。作品中的觀察
三つ目は、疑い合っている人々が、それでも食事の席には顔をそろえる場面があることです。誰も信じていないのに、食卓の決まりは残っている。生活の決まりごとが、最後に残る手続きのように見えて、私はそこに妙な安心を覚えます。解讀
記録を取る係のいない島
もう一つ、気づくことがあります。島の中には、外から見ている者がいない。起きたことをその場で書き留める係が、島のどこにも置かれていない。島にいる全員が、当事者です。解讀
私は、どの場にも記録を取る者が一人いること。それが手続きの最初の条件だと考えて、仕事をしてきました。その場に書き留める者がいれば、少なくとも、何がどの順で起きたかは残ります。この本を読むと、その一人が島の中にいない静けさが、頁の余白から伝わってきます。だから私は、読みながら自分がその係の代わりをしているような気持ちになります。島の外の、ホテルの机で。表を作る手が止まらなかった理由は、謎のためだけではなかった。いまは、そう書けます。喜好
人物の多さで閉じた人へ
人物の多さで、途中で本を閉じた方もいるはずです。私を助けたのは、最初の数章だけ、名前の横に一語ずつ、その人の職業か立場を書いておくことでした。表は完全でなくてかまわない。職業の一語で足りなければ、島へ来た理由を一語。私の表は、それで十人がそろいました。一語あれば、次にその名前が出てきたとき、顔が戻ってきます。私の手帳では、その一語が後になって一番役に立ちました。喜好
前後の二本と並べると
一本目の『十二人の怒れる男』は、決まりのある部屋で人が疑い合う映画でした。この島には、その決まりがありません。そして三本目の『古畑任三郎』で、私は初めて、犯人を最初から知った状態で表を作ることになります。作品ごとに、表を作る順番が少しずつ入れ替わっていきます。解讀
表が全部埋まっても、読み終えたことにならない一冊がある。