これは、映画『聲の形』を最後まで観た人のための、二周目の案内です。まだ観ていない人は、ここで閉じて、最初の一回を大切にしてください。展開と結末に触れるところは、押すまで開かない箱に入れました。
一周目の私は声を追っていた
一周目、私は台詞ばかり聞いていました。誰が謝るのか、誰が黙るのか。言葉が出るのを待つうちに、二時間が過ぎていた。二周目は耳を少し休ませて、手と服と目の色を見ることにしました。喜好
言葉が届かない話を、言葉以外のところでどう見せているか。二周目はそこを拾える。解讀
観直す前に知っておきたいこと
大今良時さんの漫画が原作で、制作は京都アニメーション。監督を山田尚子さんが、脚本を吉田玲子さんが務めました。公開は2016年9月17日、上映時間は129分です。事實[1]
映画の核に置かれたテーマは、繋がりたいのに繋がれず、伝えたいのに伝わらない、という人と人とのすれ違い、つまりディスコミュニケーションだそうです。事實[1]
手話の上手さが三通りある
制作の現場で徹底されたのは、次の流れでした。まず手話モデルが、絵コンテの部分を手話で演じて撮影する。アニメーターはその映像を見ながら描き、描いたものを手話監修が確かめる。手話の上手さも、キャラクターによって違えてあります。硝子にとって手話は自分の言語。だからこそ、指先の緊張感がていねいに描かれています。結絃は毎日の暮らしで使っているので、手つきが慣れている。将也や佐原は、本で学んで身につけたような手話です。事實[1]
二周目は、手話が出る場面で、顔を隠して手だけを見るつもりで観てください。手の速さで、その人が手話とどう出会ったかが分かる。私は、硝子の手がいちばん速いのではなく、いちばん慎重に見えたことに驚きました。自分の言葉だから、間違えたくない。そう受け取りました。解讀
服の黒と瞳の緑
色にも仕掛けがあります。高校生の将也の服は、よく見ないと気づかない程度に薄くて、洗濯で色が褪せている。小学生のころの黒いTシャツは、もっと濃い色でした。遊園地へ行く場面の服には、ほかの色が移ったような赤みがあります。それから、将也の瞳と同じ緑色が、硝子の瞳にも「差し色」として入れてあるそうです。事實[1]
褪せた黒は、何年も同じ服を着つづけた時間に見えました。新しい服を選ぶ気力もないまま過ぎた年月。一方で、硝子の目の中には最初から将也の色がある。本人たちが気づくより先に、画面のほうが二人を並べていたのかもしれません。解讀
硝子の笑顔を数える
硝子を演じる早見沙織さんに、監督はこう伝えたそうです。見た目は完璧でいい子かもしれない。でも、いつもの笑顔は大きくなる途中で覚えてしまったもので、本人は心の中にもやもやを抱えたまま、必死に生きているのだ、と。事實[1]
二周目は、硝子が笑うたびに、心の中で一つ数えてみてください。謝る前の笑顔、困ったときの笑顔、何も言えないときの笑顔。数えるうちに、笑顔が返事の代わりになっている場面がとても多いことに気づきます。私は、返事を急がされる人がつくる顔だと思いました。解讀
中段為止中盤の展開點擊展開
みんなで遊園地へ行ったあと、川井が昔のいじめの話を持ち出し、将也はふたたび一人になります。夏休みのあいだ、将也が入り浸っていたのは西宮家でした。
二周目は、遊園地の場面の将也の赤みがかった服を覚えておいてください。久しぶりに人と楽しんだ日に、服にだけ別の色が混じっている。私には、まだ自分の色になじめない人の一日に見えました。
二つの曲がもう一度流れる
植野がバイトしている猫カフェで流れている曲は、牛尾憲輔さんが手がけた「(i can)say nothing」。それから、将也と永束が初めて一緒にファストフードを食べる場面でかかるのが「laser」です。この二曲は、どちらも物語の中でもう一度流れます。事實[1]
題名だけ見ても、言えないことの曲だと分かる。それがどこで二度目に鳴るかは、構成の答え合わせになるね。解讀
映画全体が練習曲になっている
音楽の土台になっているのは、バッハの練習曲「インベンション」です。この映画は、生きるための練習を、将也が2時間かけてしていく話だ。そう捉えて、練習曲をもとにした曲が選ばれました。映画は三つのパートに分かれていて、第1・第2のパートで流れるのは、もとにして作った曲。最後のパートは練習が終わるところで、そこで使われるのはインベンションのオリジナルそのものだそうです。事實[1]
練習曲は、うまく弾けないことが前提の曲です。二周目は、ピアノの音が流れたら、いまどのパートにいるかを感じながら観てみてください。将也の失敗のひとつひとつが、本番ではなく練習として描かれていると思うと、少し呼吸が楽になります。解讀
結局·真相結末點擊展開
花火大会の夜、将也は硝子を引き止めます。その代わりに大けがを負い、意識を失う。将也が眠っているあいだに、硝子は覚悟を決めて、仲間たちとの仲を取り戻します。目を覚ました将也は、泣いている硝子を橋の上で見つけ、生きることを手伝ってほしい、と頼みます。やがて退院し、硝子たちと高校の文化祭へ。将也はそこでやっと周りに心を開き、涙を流します。原作は成人式の場面で終わりますが、映画はそこを文化祭の場面に変えています。
永束と食事をした場面で流れた「laser」は、文化祭でもう一度かかります。将也が自分のクラスへ戻ってくるところです。音楽の牛尾さんによれば、将也が来ると分かっていた永束は、この曲をずっとかけて待っていた。追いかけて教室のドアを開けた瞬間、小さくなっていた音量がまた大きくなるのは、永束の気持ちがそこに乗っているからだそうです。「(i can)say nothing」にも、もう一つの出番があります。退院した将也が公園で植野と話し、そのあと家にいる場面です。
もう一つ。ラストで植野と硝子が言葉を交わす場面。植野は指文字で悪口を言うつもりが、実際には「ハ・カ」になってしまっている。硝子はそれを正しい手話に直して、心から笑います。三通りの手話の上手さを見てきた二周目だと、この場面の重さが変わります。習いたての手を、いちばん慎重な手が直してあげる。私は、ここで初めて硝子の笑顔を数えるのを忘れました。
二周目の私の見方
一周目は誰が悪いかを探してしまう映画だけど、二周目は誰がどこで黙ったかの地図になるね。解讀
レンの言うとおりだと思います。言葉が届かない人たちの話を、言葉以外のもので丁寧に支えている映画でした。次に観るときは、音を少し小さくして、手と色だけで一場面を追ってみるつもりです。解讀
二周目は手話が出るたびに顔ではなく手を見てみて。手の速さが、その人と言葉の距離を教えてくれるから。
