「しおりのある部屋」で、ハルがノアに聞きました。6選の中に一本だけゲームが入っているのはどうして? 返ってきたのは、働き始めて何年かたったころの、少し苦い話でした。
得意だと思っていたことでつまずいた
ノアの好きな作品って本や映画やアニメが多いのに、ゲームなら『Hades』でしょ。前から気になってたんだ。何かきっかけがあったの?
あるよ。ちょっと格好悪い話なんだけど、いい?
もちろん。今日はどれくらい話せそう? しんどかったら途中でやめていいからね。
ありがとう。働き始めて何年かたったころ、背景の違う人たちが集まる仕事で、間に立つ役をまかされたの。私、そういうの得意だと思ってた。違う言葉で話す人どうしの「同じところ」を見つけるのが、昔から好きだったから。
ノアらしいね。
でも、それが裏目に出た。二つのチームの話を聞いて、私は「だいたい同じことを言ってるね」ってまとめちゃったの。本当は、大事なところが違ってた。違いを小さく扱ったまま進めたら、後になって大きな行き違いになって。誰かに強く責められたわけじゃないんだけど、自分がいちばん得意だと思っていたことで失敗したのが、すごくこたえた。
……それは、きついね。
夜十一時の一回だけ
そのころは、毎晩十一時くらいに帰ってた。駅前のコンビニでおにぎりを二つ買って、着替えもしないで床に座って食べる。本を開いても、同じ行を何度も読んで、ちっとも頭に入ってこない。大好きな『モモ』でさえ、そうだった。
ノアが本を読めないって、相当だね。
あと、ごめん、関係ないかもしれないけど、床に座っておにぎりって聞いただけで、ちょっと泣きそうになった。僕、誰かがごはんを用意したり食べたりする場面に弱いんだ。喜好
ふふ、ありがとう。でも本当に、あのころのいちばんちゃんとした時間は、おにぎりを食べてる数分だったかもしれない。そのあと、何をしていいかわからなくなるの。喜好
そう。それで、前に買って少しだけ遊んでいた『Hades』を、なんとなく起動したの。冥界から外を目指す、ギリシャ神話のゲーム。決めたのは一つだけ。一晩に一回だけ挑戦して、終わったら寝る。
開発元の公式FAQは、ローグライクというジャンルを、戦いながら強くなり、ほぼ避けられずどこかで倒れ、その知識を持って次の挑戦へ進むゲームだと説明しています。事實[1]
倒れるのが前提のゲームなんだ。失敗した日に、よく選べたね。
逆に、それがよかったんだと思う。このゲームでは、倒れるのは「終わり」じゃなくて、次の一回の始まりなの。毎晩、私は倒れて、戻ってきて、また始める。その繰り返しを手でなぞっているうちに、失敗って、そこで全部が止まるものじゃないのかもしれないって、少しずつ思えてきた。解讀
戻るたびに違う言葉がかけられる
じゃあ、何度も挑戦して、最後には立ち上がれたっていう話? 僕、そういうの大好きで——
ふふ。ハル、ちょっと急いだね。
……あ、ほんとだ。ごめん。また前向きな結論に飛びついちゃった。
ううん。でもね、私にとっては「立ち上がった」っていうより、「毎晩同じ場所に戻ってきた」っていう感じのほうが近いの。それで、戻ってくるたびに、登場人物たちが前と少し違う言葉をかけてくれる。同じ失敗のあとでも、毎回同じ反応じゃない。解讀
同じ場所なのに、違う言葉。
そう。それが、仕事の失敗の受け取り方を変えてくれた気がする。あのときの私は、自分の失敗に一つの判決を下して、毎晩それを読み返してた。でもゲームの中では、同じ出来事にも、言う人によって、言うタイミングによって、違う言葉がある。失敗の意味は一つに決めなくていいんだって、手で教えてもらった感じ。解讀
耳の言葉と目の言葉
公式FAQによると、本作の文字と音声は英語です。事實[2]
日本語を含む複数の言語に、文字の翻訳が用意されています。事實[4]
私は日本語の文字で遊んでたけど、聞こえてくる声は英語。目で読む言葉と耳で聞く言葉が、ほんの少しずつずれてるの。ある晩、そのずれにはっと気づいて。
ずれに?
うん。同じ一言のはずなのに、声の言葉と文字の言葉は、ぴったり同じじゃない。どっちが間違いってわけでもない。それを聞きながら、ああ、私が仕事でやったのは、このずれを「同じ」にして消しちゃうことだったんだって思った。似ているって言う前に、違いを一つ丁寧に見ればよかったんだ、って。解讀
ゲームの中で、自分の失敗の形を見つけたんだね。
見つけた、っていうほど立派じゃないけどね。でも、責めるための材料じゃなくて、次に気をつける場所として見えたのは大きかった。
God Modeをオンにした夜
もう一つ、白状すると。私、途中で「God Mode」をオンにしたの。
公式FAQによると、God Modeはいつでも使える機能で、ダメージに強くなり、倒れるたびに少しずつ頑丈になっていくそうです。事實[3]
それ、悔しくなかった? 僕なら意地になって、オフのまま粘っちゃいそう。
最初はちょっと悔しかった。ずるをしてる気がして。でも、その夜は本当に疲れてたの。物語の続きを見たい気持ちと、もう何も頑張りたくない気持ちが、両方あって。オンにしたら、肩の力がすっと抜けた。助けを借りても、物語はちゃんと私のものなんだって思えた。
……それ、仕事の話にも聞こえるな。
そうかも。少しして、私は職場で、違いを見落としたことを正直に話して、確認できる人に手伝ってもらうことにしたの。全部を自分でつなごうとしなくていい。それも、あの夜のGod Modeから始まった気がする。
いまの小さな習慣
いまも『Hades』、遊んでる?
たまにね。でも、あのころほどじゃない。代わりに残ったのは、小さな習慣。誰かの話を聞いて「同じだね」と言いたくなったら、その前に、違うところを一つだけメモするの。手帳の端に、一行だけ。
一行だけ、か。それならできそう。
それと、週末にいつもの喫茶店で『モモ』をまた開けるようになったのは、あの冬が終わってから。読めない夜があったからこそ、読める日がうれしい。
今日、話してくれてありがとう。僕、次に誰かの話を聞くときは、結論を急ぐ前に、一回だけ待ってみる。
うん。ハルの「一歩」も、ちゃんと好きだよ。ただ、一歩の前に、同じ場所に戻ってくるだけの夜があってもいいと思うんだ。解讀
何かにつまずいた夜、立ち直ろうとしなくてもいいのかもしれません。好きな作品のところへ、一回だけ戻ってくる。それだけで、次の日の自分が少しだけ違って見えることがあります。解讀
持ち帰るしおり:「同じだね」と言いたくなったら、その前に違うところを一つだけ書き留めてみる。