6選の二本目は『ダークナイト』です。夜の街を守るヒーローの映画として知られていますが、私がこの映画で泣くのは、いつもヒーローのうしろにいる人の場面です。客席でだれにも見られずに泣いた、その話から始めます。
制服で通っていた映画館で
初めて観たのは、制服のまま町の小さな映画館に通っていたころでした。いちばんうしろの端に座って、長い上映の終わりのほうで、気づいたら泣いていました。うしろの席のいいところは、泣いてもだれにも見られないことです。明かりがつく前に目を拭き終えて、何もなかった顔で外へ出る。あの日に覚えたそのやり方を、私はいまも続けています。喜好
どんな映画か
アメリカン・コミックの『バットマン』をもとにした実写映画で、監督はクリストファー・ノーランさん。同じ監督の『バットマン ビギンズ』の続きにあたります。昼は大富豪のブルース・ウェイン、夜はバットマンとして街に出る主人公を、クリスチャン・ベールさんが演じています。事實[1]
幕開けは、マスク姿の一団が、マフィアのお金を預かる街の銀行に押し入る場面。舞台はゴッサム・シティです。街ではバットマンとゴードン警部補、そして地方検事のハービー・デントが手を組んで、組織犯罪をつぶそうとしている。そこへ、ジョーカーと名乗る男が入りこんできます。事實[1]
主人のうしろに立つ人
ブルースのそばにいるのが、ウェイン家の執事のアルフレッド・ペニーワース。演じているのはマイケル・ケインさんです。事實[1]
私がこの映画を好きなわけの、最初の一つはこの人です。表に出て戦うのはブルースで、アルフレッドはそのそばに仕える執事。私には、彼が画面に入ってくると客席の空気がふっとゆるむように感じられました。主人の前に立ちはだかるのではなく、うしろから見守っている人に見える。その立ち位置に、私はめっぽう弱い。喜好
劇場の仕事も少し似ている
二つ目は、この映画が、いまの私の仕事を少しだけ照らしてくれることです。劇場の主役は、画面とお客さんです。私たちは扉を開ける前に明るさを確かめ、音を確かめ、座席の列を見て回って、本編が始まったら外に出る。何かが起きたときだけ、前に出ていく。副支配人を任されてから見返すと、アルフレッドの立ち方が前よりずっとよく見えるようになりました。主人のために場を整えて、黙って待つ。そういう人がいるから、表に立つ人が戦える。泣くのは、そこに自分の仕事を少し重ねてしまうからかもしれません。開場前、だれもいない座席の列を端から端まで見て回るとき、私はときどき、あの執事が主人の帰りを待つ背中を思い出しています。解讀
夜の街の暗さ
三つ目は、夜の街の暗さです。この映画の暗い場面は、黒がちゃんと黒く映る場所で観ると、街の奥行きがまるで違って見えます。客席の非常口の灯りや、前の席のスマホの光がひとつでもあると、その奥行きが削られてしまう。だから私は、暗い映画の上映の日ほど、開場前に客席まわりの灯りをひとつずつ確かめます。暗転の一秒を守るのが私の持ち場なので、この映画はその大事さをいつも思い出させてくれます。喜好
それから、この映画は一部の場面を高精細のIMAXカメラで撮っていて、劇映画でIMAXカメラが使われたのは、これが初めてだったそうです。事實[2]
それを知ったのは、ずっとあとになってからでした。町の小さなスクリーンで観たときも、客席がいっせいに背もたれから体を起こす瞬間が何度かありました。大きな画面のために撮られたものは、小さな画面でも何かがはみ出してくるのかもしれません。喜好
棚に残った一冊
映画を観て買うのはパンフレットだけ、と決めています。そのかわり、買ったものは一冊も捨てていません。棚のいちばん古い段に、この映画のパンフレットがあります。角が丸くなって、表紙の黒が少し褪せている。泣いたあとの手で持ったせいか、ページの端が一か所だけ波打っています。新しい仕事を任された日や、職場でかける言葉に迷った夜に、ときどきその一冊を開きます。読むのは、執事を演じた人の紹介の頁だけ。それで、だいたい落ち着きます。喜好
長さに迷っている人へ
長くて重い映画だと聞いて、迷っている人もいると思います。私が入りやすかったのは、ヒーローを追うのに疲れたら、執事を目で追うつもりで観ることでした。私にとっては、彼の姿が見えるたびに、少し息がつけたんです。前作を観ていなくても、私は困りませんでした。気になったら、あとから前の作品へ戻ればいいと思います。私は部屋の明かりを落として観るのが好きです。暗い場面の多い映画なので、画面の黒が深いほど、夜の街の奥行きが増して見えました。喜好
6選のほかの作品と
同じころに出会った『アイアンマン』は、作る人の映画でした。こちらは支える人の映画です。そして、のちにアルバイト先の劇場で観た『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では、置いていかれそうな人を連れて帰ろうとする人に惹かれました。作る、支える、連れて帰る。迷ったときに、私はたいていこの三人のだれかの動き方をまねしています。いちばん先に出てくるのは、決まってこの執事です。喜好
表に立つ人のうしろで、場を整えて待つ人がいる。夜の街の映画の中で、私がいちばん長く目で追っていたのは、その人の背中でした。
