コースの金網の向こうで、カートのエンジン音が近づいては遠ざかる。ピットの横のベンチで、ジンは黒い革のジャケットを脱ぎ、店で借りたレーシングスーツのファスナーを首まで上げた。隣では、ハヤテがヘルメットを膝にのせて、タイヤの溝を指でなぞっている。
師匠。今日こそ周回遅れにはならねえ。
はい。前回より、二コーナーの入りが良くなっていれば、なりません。
……そこは「なりません」だけでいいだろ。
受付のカウンターから、店のおじさんが顔を出した。日焼けした腕に、油のしみたタオルを巻いている。
ジンさん、また師匠と来たの。今日は手袋忘れてない?
忘れてねえ。……ほら。
ジンがジャケットのポケットから出したのは、片方だけの手袋だった。おじさんは何も言わずに、貸し出し用の手袋を一組、カウンターに置いた。ジンは「……別に」と言って受け取り、帰りにちゃんと礼を言うつもりで、レンタル料と一緒に払った。
それより師匠。俺、あれ読んだ。『頭文字D』。全部。三日で。
……全部ですか。
しげの秀一の漫画『頭文字D』が扱うのは、公道でのレースと峠のドリフトだ。1995年から2013年にかけて『週刊ヤングマガジン』(講談社)に連載され、テレビアニメにも映画にもなった。主人公が公道のバトルで走らせる車は、トヨタ・スプリンタートレノのAE86型。[1]
夜の峠で、ハチロクが曲がるとこ。あれ読んでたら、手が勝手にハンドル切ってた。で、思ったんだ。俺も一回、山の上のほうの道で──
それは、サーキットでやることです。
ハヤテの声は大きくなかった。けれど、エンジン音の合間にはっきり通った。ジンは口を開けたまま止まり、それから頭をかいた。
……分かってる。言ってみただけだ。公道じゃ法定速度。師匠と最初にそう決めた。それは契約だろ。
はい。……でも、あの漫画を読んで手が動いたのは、すごく分かります。僕も最初はそうでした。
あの作品で僕がいちばん好きなのは、速い場面より、遅い場面なんです。コーナーの手前で、ちゃんと減速するコマ。どこでブレーキを踏んで、どこで離すか。速さは、ブレーキの手前で決まるんです。あの漫画、そこを何回も描いてくれるから──
ハヤテの手が、空中でコーナーの線を描きはじめた。手前で一回止まり、ゆっくり回り込み、出口でぐっと前に伸びる。ジンは黙ってその手を見ていた。
……あ、すみません。しゃべりすぎました。
いい。続けろ。今の、もう一回。
コースに出ると、ジンのカートは直線でぐんと伸びた。けれど第二コーナーの手前で、ブレーキが遅れる。タイヤが鳴いて、車体が外へふくらむ。そのあいだに、後ろから来たハヤテのカートが、音もなく内側を抜けていった。
五周目、ジンはコーナーの手前で、少しだけ早くブレーキを踏んだ。車体はふくらまず、出口でアクセルを踏んだ瞬間、さっきまでより前に出た。金網の向こうで、おじさんが小さく手を上げた。
ハヤテの走りは、外から見ると少しも速そうに見えない。ハンドルを切る量が小さく、車体が揺れず、タイヤもほとんど鳴らない。それなのに、一周ごとにジンとの間が少しずつ開いていく。七周目、ジンはハヤテのラインを真似しようとして、真似できないことに気づいた。どこで踏んでいるのか、外からは見えないのだ。
十周を終えてピットに戻ると、ジンのヘルメットの中は汗でびっしょりだった。ハヤテは、走る前とほとんど同じ顔をしていた。
……周回遅れには、ならなかった。
はい。五周目から、入りが変わりました。いまのブレーキ、少し早めでよかったです。
早めに踏んだら、速くなった。意味分かんねえけど、分かった。
ブレーキは、速く走るためにあります。……ジンさんに、最初に言ったことです。
覚えてる。……忘れたことはねえ。
師匠。前から聞きたかった。お前、なんでそんなに速く走りてえんだ。
ハヤテはすぐには答えなかった。コースでは、家族連れの子どもが、店の人に横についてもらって、ゆっくりと一周目を回っていた。
……本当は、空に行きたいんです。速いものの、いちばん先にあるのが空だと思っていて。でも、いまの僕が乗れるのは地面の上だけなので、地面の上でいちばん丁寧に走れるようになりたい。それが、たぶん、空に近い気がしてます。
……でけえな。
すみません。変なこと言いました。
変じゃねえ。俺の音楽も似たようなもんだ。でかい音を出すやつほど、止めるとこで決まる。全部の音を鳴らしっぱなしだと、客には何も届かねえ。黙る一拍があるから、次の一発が刺さる。……今日、師匠のブレーキ見てて、それ思い出した。
止めるところで決まる。……それ、今度、僕も使っていいですか。
好きにしろ。授業料だ。
ハヤテは少し笑って、ペットボトルの水を一口飲んだ。それから、ジンのほうを見ずに言った。
峠の漫画を読んだなら、次はこっちを読んでほしいです。『capeta』。カートの話なんです。
曽田正人がモータースポーツを描いた漫画が『capeta』で、共同原作者に冨山玖呂が名を連ねる。連載は『月刊少年マガジン』で2003年から2013年まで続き、単行本は32巻で完結した。第29回講談社漫画賞では少年部門を受賞している。アニメにもなり、テレビ東京系列で放送された。主人公は、カートのとりこになった少年だ。[2]
カートに魅せられた子の話なので、読んでいると、自分が初めてカートに乗った日のことを思い出すんです。ハンドルが重くて、エンジンの振動で手がしびれて、それでも降りたくなかった日。僕はあの感じが好きです。それに、コースの上の話なので。
コースの上。……師匠らしい勧め方だな。
俺のほうの漫画はだいたい、ステージの上で暴れる話だ。音がでかくて、客が叫ぶやつ。あれも、決まった場所でやるから面白い。外でやったら、ただの迷惑だ。……そういうことだろ。
はい。……それです。
帰り支度をしながら、ジンはカウンターに寄り、借りた手袋を返して「助かった」と頭を下げた。おじさんは笑って、忘れ物の片方の手袋を袋に入れて渡してくれた。駐車場で、ジンは自分の車のシートに座り、ミラーを合わせ、シートベルトを締めてから、助手席の窓を下げた。
師匠、駅まで送る。法定速度で。
お願いします。……合流のとき、ウインカー、少し早めでもいいです。
……押さえとく。