朝八時。駅前のレンタカーの駐車場で、ジンは運転席に座ったまま、ハンドルを両手で握っていた。まだエンジンもかけていない。助手席では、ハヤテがシートの位置を一段ずつ確かめている。
師匠。今日は、あの山だな。
はい。……先に、約束を確認させてください。今日は法定速度で走ります。追い越しはしません。カーブの手前では、ちゃんと減速します。
わかってる。……それは契約だろ?
契約です。
ジンは真顔でうなずいた。レンタルカートの店で周回遅れにされて以来、ジンはハヤテを「師匠」と呼び、運転のことだけは素直に言うことを聞く。それ以外のことは、あまり聞かない。
で、確認だ。あの漫画の山は、ほんとにこの先にあるんだな。
作中の秋名山という山は架空の名前なんです。モデルになっているのは、上毛三山のひとつの榛名山です。ほかの地名は、実際の名前で出てきます。[1]
名前だけ変えてあるのか。……照れ屋だな。
照れ屋、ではないと思います。
エンジンがかかった。ジンはミラーを三回、ハヤテに言われる前に合わせた。それから、ゆっくり駐車場を出た。
町を抜ける途中、ハヤテが急に「あ」と言った。歩道ぎわの路面に、絵の描かれたマンホールのふたが見えた。
渋川市は、作品の舞台を訪れる人のために、絵柄の入ったマンホールを置いたり、ラッピングバスを走らせたりしているんです。[1]
停めて撮るか?
ここは停めないでください。駐車場に入れてから、歩いて戻りましょう。車道に出て撮るのも、なしです。
……おう。
近くの駐車場に車を入れて、二人は歩道を戻った。ハヤテは歩道の内側に立ったまま、車の切れ目を待ってから一枚だけ撮った。ジンはその横で、通りかかった軽トラックに、なぜか深く頭を下げていた。
どうして頭を下げたんですか。
この町の道を、借りてるからな。……別に。
山へ向かう道に入ると、カーブが増えた。ジンの肩に力が入る。ハヤテは前を向いたまま、右手を少しだけ持ち上げた。
ここは、手前でブレーキを終わらせます。曲がりながら踏まない。……はい、それでいいです。出口が見えてから、少しずつ。
……遅くないか。
遅くないです。ブレーキは、速く走るためにあります。でも今日は、速く走る日じゃないので、ちゃんと止まれるためにあります。
漫画の連中は、こういう山道で走りを競ってたんだろ。
それは、サーキットでやることです。
きっぱりした声だった。ジンは口を閉じて、法定速度の表示を見た。メーターの針は、駐車場を出たときからずっと、その数字の手前にあった。
作品のほうでも、読む人が本当に真似しようとしたので、連載の途中からと、テレビアニメで、道路交通法を守って安全運転を、という注意が出るようになったんです。[1]
作った側が、止めに入ったのか。
はい。僕は、そこも含めて好きです。速さを描く人が、道の上では止まれと言う。……あ、すみません。しゃべりすぎました。
しゃべれ。師匠の講義は、金を払っても聞く。
前を、自転車の一団が登っていた。ジンはハヤテの指示より先に速度を落とし、十分な間をあけて、その後ろについてゆっくり登った。追い越さない、と契約したからだ。ハヤテは何も言わなかったが、膝の上で小さくこぶしを握っていた。
山の上の駐車場に車を停めると、急に静かになった。下に町が広がり、雲の影がゆっくり動いている。ジンは車を降りるなり、ボンネットに手を置いた。
……熱い。よく頑張ったな、お前。
車に話しかけるんですね。
ギターにも話しかける。弦が切れる前の日は、だいたい分かる。
……それは、分かります。僕も、タイヤを磨いているときがいちばん好きなので。
ハヤテはしゃがんで、レンタカーのタイヤの溝を指でなぞった。速さの話よりずっと長く、ずっと楽しそうに、空気圧の話をした。ジンは途中から分からなくなったが、最後まで黙って聞いていた。
師匠は、あの主人公のどこが好きなんだ。
主人公が乗っているのは、ハチロクと呼ばれる古い型の車なんです。[1]
僕が好きなのは、その車で、特別な場所じゃなくて、毎日の決まった道を走って覚えていったように見えるところです。毎日の積み重ねが、速さになっている。
……下から、腕一本か。俺の好きな話だ。
腕一本と、毎朝の一回です。
昼は、駐車場のベンチでコンビニのおにぎりを食べた。ジンは三つ、ハヤテは一つ半。残りの半分は、ジンが「育ち盛りが何を言ってる」と言いながら、結局自分で食べた。
師匠は、なんで車なんだ。
小学生のとき、近所のカート場で初めてハンドルを握って……自分の手で、何かを思いどおりに動かせたのが、初めてだったんです。家では、ひとりの時間が長かったので。
……ひとりの時間か。
でも、隣の家のタカシさんが、庭の花ごしによく声をかけてくれました。古いレースアニメのDVDも、あの人が貸してくれたんです。スポンサーになろうか、って何度も言われて、何度もお断りしています。
断るのか。もらっとけよ。
自分で走りたいので。……ジンさんは、もらいますか。
……もらわねえ。腕一本でのし上がるって決めてる。
じゃあ、同じですね。
ジンは「同じじゃねえ」と言いかけて、口の中のおにぎりと一緒に飲みこんだ。
風が強くなってきた。ハヤテは手すりにもたれて、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
……そのうち、車は機械が運転するようになると思います。そうしたら、僕がこうやって覚えたことに、意味はあるのかなって、ときどき考えます。
ジンはすぐには答えなかった。サングラスを外して、レンズを服の裾で拭いた。
今日、俺は一回も怖い思いをしなかった。隣で、師匠が手前で止めろって言ったからだ。……機械に、それが言えるかよ。
……言えるかもしれません。
じゃあ、言い方だ。師匠の言い方は、機械には真似できない。……別に、ほめてない。
ハヤテは何か言いかけて、やめて、少し笑った。年上の人をこんなふうに笑うのは失礼かもしれない、と思いながら。
帰り道、ふもとの町で、ジンは豆腐を一丁買った。ハヤテが不思議そうに見ていると、ジンはそのパックを助手席のハヤテの膝にのせた。
持っててくれ。駅まで、こいつを崩さずに帰る。
……分かりました。急な加速と、急なブレーキは、なしです。
駅前に車を停めたところで、ハヤテがふたを開けた。豆腐は、角ひとつ欠けていなかった。ジンは「当然だ」と言って、そのあと三回、ガッツポーズをした。