十月の土曜、朝十時。駅から少し歩いた住宅地のコインランドリーで、ミナトは乾燥機の前のベンチに座っていた。乾燥の三十分で、縦読みの漫画を一話。土曜の朝は、そう決めている。右耳にだけ入れたイヤホンからは、まだ何も流れていなかった。
ガラス戸の外に、二輪が一台停まった。ヘルメットを脇に抱えて入ってきたのは、ハヤテだった。海まで行く途中で寄ります、と前の晩に短い連絡が来ていた。
早いな。何時に出た
五時半に起きて、ガレージでチェーンを見てから出ました。……乾燥機、あと何分ですか。
二十二分
ハヤテはベンチの端に腰を下ろし、ヘルメットを膝にのせた。グローブを外した両手が、膝の上で一度だけハンドルの形になって、すぐにほどけた。
昨日の夜、『頭文字D』のいちばん最後の巻を、もう一回読みました。それで、誰かに話したくなって。
俺は読んでない。この先も、たぶん読まない。だから、最後まで言っていい
結末まで、全部でもいいですか。
全部。二十二分で足りなかったら、もう一回分まわす
じゃあ、入口から話します。
主人公は藤原拓海。群馬に住んでいる、見たところはふつうの高校生です。家は豆腐屋で、峠道をいつも走っているうちに、運転の腕だけが並外れていた。描かれるのは、峠で車の速さを競う走り屋の若い人たちです。[1]
連載が終わったのは、僕が小学校に上がる前でした。アニメは中学のころに配信で観ていて、原作は高校に入ってから、電子で最後まで読みました。[1]
『週刊ヤングマガジン』で1995年30号から2013年35号まで連載。単行本は全48巻
で、拓海のどこ。速いとこ?
最初に好きになったのは、拓海の好きなものの欄です。昼寝と、木の葉が出たばかりの季節。それから、ハチロクのおしり。[2]
昼寝が先頭
僕も、教室ではよく机に伏せてます。寝てると思われてますけど、半分は頭の中でコースを回ってます。
じゃあ、半分は寝てる
はい。半分は。
拓海にとって走るのは、顔を洗うのと変わらない、毎日のことだそうです。勝負の漫画なのに、主人公の口から出てくるのが気合いじゃなくて習慣。そこで、この人を信じようと思いました。[2]
習慣か。俺も現場で三脚を立てるとき、もう何も考えてない。考えないで立てられるようになるまでが、長かった
その、考えないでできるようになるまでの時間を、この漫画は飛ばさないんです。
ただ、一つだけ先に言わせてください。拓海は、免許をまだ持てない中学生のころから、お父さんに言われて配達の車を運転しています。[2]
そこは、物語の中のことです。僕がはじめてハンドルを握ったのは、カート場のコースの中でした。道に出たのは、免許を取ってから。その順番だけは、僕は入れ替えません。
順番は大事。そこを入れ替えるやつは、仕事でも信用されない
それで、僕がいちばん好きなのは、拓海とハチロクの付き合い方です。最初の拓海は、あの車を、家の商売に使ってる古い車くらいにしか思ってない。人に話すときも、ボロって呼びます。[2]
自分の車をボロ呼ばわり
作中の一台のモデルは、作者さんが自分で持っていた車だそうです。[2]
作った人の車が元。それ、いい元ネタ。アニメで拓海の声をやった人も、そのあと本物のハチロクを買った、って切り抜きで見た[1]
知ってたんですか。
流れてきただけ。元の作品は、いま初めて聞いてる
ここから先は、中身に入ります。畳んでおきます。
中段為止中盤の展開(群馬の峠のあたり)點擊展開
ハヤテ「拓海の気持ちが変わりはじめるのは、ある勝負で相手にわざとぶつけられて、無茶なラインで追いかけたときです。そのとき、ハチロクの車体に傷をつけてしまう。拓海は、ひどく落ちこみます。車が汚れているのに気づくと、自分から洗うようにもなる」
ハヤテ「それから、赤城の峠での勝負で、ハチロクのエンジンが壊れて、走れなくなる。拓海が負けた、数少ない勝負の一つです。拓海は、自分のせいだと思って泣きます」
ハヤテ「そのころから、拓海はあの車のことを、クルマじゃなくて、ハチロクと呼ぶようになるんです。僕は、ここで一回、本を閉じました」
ハヤテ「中学に上がった春、学校が休みになって、レースもなくなった三か月がありました。カート屋のおじさんに古いエンジンを借りて、ガレージで一人で分解して、組み直した。最後に、ねじが一本余りました。そのねじは、いまも工具箱の底に入れてあります。自分が分からなかったところを、忘れないように」[2]
工具箱のねじの話、覚えとく
ハヤテは前髪の下で目を伏せ、膝のヘルメットを持ち直した。乾燥機の中で、タオルが同じ向きに回りつづけていた。
拓海は最初、ふつうに運転すること以外、車のことをほとんど知りません。乗っている車のメーカーを、言い間違えたりもします。[2]
乗れるのに、知らない
はい。そこから先が、僕のいちばん好きなところです。
中段為止中盤の展開(高校生のころの終わりのあたり)點擊展開
ハヤテ「壊れたエンジンのかわりに、お父さんがレース用のエンジンを用意して、ハチロクに載せ替えます。ところが拓海は、その新しいエンジンに、なかなかなじめない。すぐあとに出会った走り屋には、そこを厳しく言われます」
ハヤテ「拓海はそこから、走るだけじゃなくて、中身のほうを知ろうとしはじめます。チームに入ってからは、メカのことも勉強している最中だと書かれています」
ハヤテ「僕は、ここで拓海がやっと、乗り手になった気がしました。カートでいうと、タイヤの空気圧を自分で決められるようになった日と、少し似ています」[2]
中身を知ろうとする、のとこ。俺の仕事にも近い話がある
ドローンで撮った写真から地形を起こすのは、いまはほとんどソフトが自動でやる。速く回すのは得意。でも最後に、点群のノイズを一個ずつ自分の目で見ないと、出した図面を自分のものだと思えない
……分かります。機械が先に答えを出しても、最後に触る手が要る。僕も、ときどきそれを考えます。
さっき、チームに入ってから、って言った。チームって何
そこも、畳みます。拓海が、はじめて自分で決めるところなので。
中段為止中盤の展開(高校を出るころ)點擊展開
ハヤテ「それまでの拓海は、まわりに乗せられて、流されるように勝負を受けていました。でも、自分の走りに限界を感じはじめたころ、高橋涼介から、県の外へ遠征するチームに入らないかと声がかかる。速くなるには知識が要る、と言われて、心が動きます」
ハヤテ「そこで拓海の中に、いちばん上まで行けるドライバーになりたい、という夢が生まれる。涼介がつくったチームで、拓海は下りを、弟の啓介は上りを受け持つ。活動は一年だけ、と最初から決めてあるチームです」
ハヤテ「下りの担当、というのが僕は好きでした。上りはエンジンの力がものを言うけど、下りは止まり方と曲がり方の勝負なので。僕もいまのチームでは、年下の子たちが走るラインを見る係になっています。自分が速く走るより、人のブレーキの位置を見ているほうが、長くなりました」[1]
年下の面倒、見てるんだ。お前が
見てる、というより、見えちゃうんです。前の子が踏む場所が、毎周同じかどうか。
あと、拓海は、勝ちの数え方が正直です。
数え方?
中段為止中盤から後半の展開(チームで遠征するころ)點擊展開
ハヤテ「拓海は、たくさん勝ちます。でも、勝ったのに勝った気がしない、という勝負がいくつもある。ランエボとの勝負のあとには、地元の峠じゃなかったら負けていた、と打ち明けます。高橋涼介に勝ったときも、本人には勝った実感がない」
ハヤテ「チームに入ってからも、相手の車の前に小さな動物が飛び出して、相手がそれをよけた一瞬に前へ出た勝負があります。暑さと長い競り合いで体調を崩した相手が、途中で降りた勝負も。どっちも勝ちは勝ちです。でも、運で勝ちを拾った勝負として数えられています」
ハヤテ「僕にも一つあります。小学生のころの決勝で、前を走っていた子のチェーンが外れて、僕が一つ繰り上がった表彰台。トロフィーはもらいました。でも、僕の中の勝ちの数には入れていません」[2]
そこは、俺は違う読み。運で拾った勝ちも、記録には残したほうがいい
測った値がずれても、ずれたまま残しておく。都合のいいほうに寄せると、あとで誰も元に戻れない。勝ちも同じで、数えたうえで、自分の腕じゃなかったって横に書いとけばいい
横に書く、ですか。……それなら、数えられるかもしれません。トロフィーの台の裏に、書いておきます。
乾燥機が止まる音がした。ミナトが扉を開けると、温かいタオルのにおいが広がった。ハヤテは何も言わずに隣に立って、タオルを一枚ずつ取り出し、角と角を合わせて畳みはじめた。タイヤを磨くときと同じ、急がない手つきだった。
畳むの、うまいな
ピットのウエスは、畳んで置かないと怒られるので。
もう一回分ある。続きは、それが回ってるあいだに
二つ目の洗濯物が乾燥機の中で回りはじめた。ハヤテはベンチに戻り、ヘルメットを膝にのせなおした。ガラス戸の向こうで、停めた二輪のミラーに秋の日が当たっていた。
ここからは結末です。最後の勝負と、その先。開けるかどうかは、お任せします。
開ける
結局·真相結末(最後の勝負)點擊展開
ハヤテ「最後の勝負の相手は、乾信司。拓海は前半、相手の変わったラインをまねて、優位に立ちます。でも、まねた走りがタイヤに負担をかけて、今度は拓海のほうが苦しくなる。昔、高橋涼介が拓海の走り方をまねてタイヤを傷めたのと、立場がちょうど逆になります」
ハヤテ「拓海は、ヘッドライトを消して後ろから迫る、自分の手で前に出ます。作中でも、とても危ない技として描かれている走り方です。現実の道では、ありえません」
ハヤテ「最後のコーナーでライトをつけ直した瞬間、エンジンが回りすぎて壊れて、ハチロクはスピンします。相手もよけようとしてスピンする。拓海はあわてずに車を立て直して、後ろ向きのまま、ゴールまで下がっていきます。勝ちは、ほんのわずかの差。決めたのは、競り合いをくぐってきた経験の差でした」
ハヤテ「僕は、ここを読むたびに手のひらがしびれます。エンジンが壊れた瞬間に、拓海はもう、止まり方を選んでいる。最後の一つは、速さじゃなくて、止まり方で決まった勝負だと読んでいます」[2]
読んでないのに、手が止まった
話しているあいだ、ハヤテの右手は何度も宙で小さな弧を描いていた。最後のコーナーのところで、その手がぴたりと止まったのを、ミナトは横で見ていた。
……手、動いてましたか。
ずっと。止まったとこまで見てた
もう一つだけ畳みます。最後の最後です。
結局·真相結末(そのあと)點擊展開
ハヤテ「壊れたハチロクは、原作では、そのまま廃車になります。アニメのほうでは、拓海がお父さんに頼んで、家の駐車場に置いておけることになる」
ミナト「版で違うのか」
ハヤテ「はい。原作の最後は、プロのチームからいくつか声がかかっている、という話は出るけど、その先ははっきり描かれない。拓海が豆腐を配達している場面で、終わります。同じ巻に入っている外伝には、のちに世界の舞台で頭角を現す人だ、と書かれています」
ハヤテ「僕は、アニメのほうの終わり方に救われました。工具箱の上にミニカーを一台ずつ並べているくらいなので、壊れた車にも、帰る場所があってほしい」
ミナト「俺は原作のほう。壊れたら、置いていく。持ち物は増やさない。それで、次の朝もいつもどおり配達に出る。そっちのほうが、拓海らしい気がする」
ハヤテ「……ミナトさんらしいです」
ミナト「らしいって、何」[2]
僕がこの漫画を好きなのは、拓海が一台の車と、最後まで付き合いきったからだと思います。速い人の話というより、付き合い方の話として読んでいます。
付き合いきる、か。俺は一本を観終わったら、その晩のうちに次の作品へ行くほう
でも、ミナトさんは次に行っても、元の作品がどこから来たかは、ちゃんと覚えてます。さっきの声の人の話みたいに。
似てる。たぶん。……乾燥機、あと十一分
じゃあ、その十一分だけ、チームで最初に遠征した峠の話をさせてください。海は、そのあとにします。
ミナトはスマホを伏せて、右耳のイヤホンを外し、ケースに戻した。ハヤテはそれを見て、少しだけ口の端を上げてから、膝の上の両手をハンドルの形にした。