前の晩、二人の携帯電話に、ハヤテから同じ文面が届いていた。「ミナトさんは、僕が子どものころ隣の家にいたお兄さんです。ジンさんは、僕を師匠と呼ぶギターの人です。お二人とも『ぼっち・ざ・ろっく!』を4コマで読んでいます。僕は明日の朝が早いので行けません。ジンさんはすごく悪そうに見えますが、いい人です。……ジンさん、待ち合わせは契約です」。
十八時二分。下北沢駅の改札の前で、ミナトは片耳にだけイヤホンを入れて、人の流れを見ていた。無地のパーカーに、ネオンの黄緑のスマホケース。ハヤテが伝えた目印はそれだけだった。
人波を割って、黒ずくめの男が走ってきた。日の暮れたあとのサングラス。背中にギターケース。息が上がっている。
……ミナト、か。師匠の。
ジンさん。ハヤテの。……二分過ぎ。
遅れてねえ。契約だからな、三十分前に着いてた。そこから、ちょっと町を偵察してただけだ。
迷った?
……偵察だ。
ミナトは何も言わずに、地図アプリを開いて見せた。駅のまわりの住所が、細い字で並んでいる。
この辺、住所だと北沢。下北沢っていう地名は、いまは公的にはない。世田谷区ができたときに、北沢になった。[2]
は? じゃあ俺は三十分、どこに迷ってたんだ。
迷ったんだ。
……別に。
駅が小さい丘をはさんでて、南が低くて、西が高い。道が狭くて、入り組んでる。迷うようにできてる町だから、ジンさんのせいじゃない。[2]
ジンはサングラスを外して、少しだけミナトの顔を見た。慰められたのか、からかわれたのか、決めかねている顔だった。ミナトはもう地図に目を戻していた。測量会社の新人で、ドローンで撮った写真から地形図を起こすのが仕事だと、ハヤテのメッセージの続きに書いてあった。
計画は、どちらにもなかった。駅のまわりを、古着屋と飲食店とライブハウスの看板が埋めている。二人は、看板の多いほうへ歩きだした。
ここが、結束バンドの町だ。作中のライブハウスが、下北沢にある設定だからな。[1]
メンバーの名字の由来になった実在のバンドが活動してた町で、町のライブハウスの一つも、作中の舞台かそのモデルになってる。……って、読んだ。行ったことはない。[1]
聖地巡礼、行かない派か。
行かない派。今日は、ハヤテに頼まれたから。
細い道の角を曲がるとき、ジンの背中のギターケースが横に振れた。向こうから来た自転車が、ぎりぎりでブレーキをかけた。ジンは「悪い」と短く言って、壁ぎわに寄った。
ケース、肩から下ろして、縦に持ったほうがいい。この道、人がすれ違うだけで埋まる。
……おう。
あと、この先は家ばっかり。声、落として。写真撮るなら、通りの端で止まって、人が来たら一回やめる。
撮らねえよ。……俺は耳で覚える。
ジンはケースを胸の前で縦に抱え直した。それから、さっきより一歩ぶん狭い歩幅で歩いた。ミナトはそれを横目で見て、何も言わなかった。言わないのが、ミナトなりの合格の出し方だった。
駅の近くのハンバーガー屋の二階で、窓ぎわの席に並んだ。ジンは二個頼み、ミナトは一個とポテトを頼んだ。外の道を、楽器を背負った若い人たちが、何人も通っていく。
お前、なんでぼっちなんだ。
人前に出るのが苦手な子が、ギターでだけは前に出る。その出方が好き。全部じゃなくて、ギターでだけ、ってところ。
主人公は、父親のギターを借りてのめりこんで、動画のサイトで「ギターヒーロー」って名前で評判になるくらい弾ける。なのに、ひどい人見知りで、人前で弾くのにも、人と合わせて弾くのにも慣れてない。[1]
一人で弾けるのと、人の前で、人と合わせて弾けるのは、別の筋肉だ。俺はそこを、ちゃんと描き分けてるのがいいと思ってる。
俺は4コマで読んでる。4コマは倍速にできないから、速さを自分で決められる。寝る前に、何本かだけ。
俺も原作は4コマで読んだ。はまじあきの4コマ。移動の車で、一曲聴くあいだに数本。[1]
ジンはハンバーガーを持ったまま、ミナトの耳を見た。左耳にだけ、イヤホンが入っている。
それ、片方だけなのは。
もう片方で、人の話を聞くため。
……バンドと同じだな。片方で自分の音、片方でみんなの音。両方ふさいだら、合わせられねえ。
そういうつもりじゃなかったけど。……そういうことにしとく。
ジンはポテトを一本、勝手にミナトの皿から取った。ミナトは止めなかった。
師匠の大会、行ったことあるか。いつも最前に、作業着のおっさんがいる。タカシのおっさんだ。知ってるか。
知ってる。
それだけだった。ミナトはポテトの袋を折りたたみ、窓の外を見た。ジンは何か言いかけて、やめた。
……そうか。
しばらく、二人とも黙っていた。下の道を、ギターケースを抱えた女の子が、うつむいて早足で通っていった。ジンの目が、それを追った。
昔、ライブの前のリハで弦が切れた。替えを持ってなくて、ステージの端で固まってた。そしたら対バンのやつが、何も言わずに自分の替えを一本置いてった。名前も聞けなかった。……それから、ケースに替えを二本入れてる。一本は、誰かの分だ。
なんで、それ俺に言うの。初対面なのに。
初対面だからだ。……別に。
ミナトは少し考えてから、スマホのアルバムを開いた。誰にも送らないと決めているフォルダだった。読み終えた話の、一コマだけを保存しておく場所。そこから一枚を選んで、画面をジンのほうへ向けた。
勧めない。聞かれたから見せるだけ。俺がいちばん好きなコマ。
ジンは長いこと黙って、その画面を見ていた。何のコマだったのかは、ジンもミナトも、あとで誰にも言わなかった。ジンは最後にサングラスをかけ直して、「……泣いてねえ」とだけ言った。誰も、泣いたかどうかを聞いていなかった。
二十一時。駅の改札の前に戻ると、人の流れは来たときより増えていた。二人は柱の陰に寄って、通る人の邪魔にならない場所で立ち止まった。
次は、師匠も入れて三人だ。契約な。
契約は重い。約束なら。
同じだろ。
無理に合わせなくていいよ。俺は約束で来る。ジンさんは契約で来ればいい。
その夜、それぞれの家で、二人の携帯電話がほとんど同時に鳴った。ハヤテからだった。「どうでしたか」。ミナトは「悪くなかった」と打った。三秒後、同じ画面にジンの返事が並んだ。「悪くねえ」。ハヤテからは、ハンドルを握る猫のスタンプが一つだけ返ってきた。ミナトは布団の中でイヤホンの音を少し下げて、寝る前のぶんの4コマを、一本だけ、等速で読んだ。