一時十分に店の看板の明かりを落とし、グラスを全部拭き終えたのが一時二十五分。カオルは髪をほどき、ジーンズに着替えて、角のコンビニの自動ドアをくぐった。夜の仕事のあとの、いつもの寄り道だ。
雑誌の棚の前に、ギターケースを背負った黒い革ジャンの背中があった。新刊の漫画を一冊手に取り、帯の裏の文字を、眉間にしわを寄せて読んでいる。
ジンさん。お疲れさまです。今夜もライブでいらっしゃいましたか。
……おう。なんで敬語だよ。ここ、店じゃねえぞ。
……ほんまや。あかん、まだ口が店のままやった。ジン、お疲れ。
打ち上げ抜けてきた。うるせえんだよ、あいつら。……別に、新刊が出てたからじゃねえ。
その手に持ってるのは、なんなん。
……たまたま、手に取っただけだ。
レジの横の蒸し器には、肉まんが一つだけ残っていた。二人の視線が、同時にそこで止まった。
レジには、大学生くらいのアルバイトの男の子が一人。トングを持つ手が、少しぎこちない。
い、いらっしゃいませ。肉まん、あと一個です……。
……別に。腹、減ってねえし。
言い終わるのと同時に、ジンの腹が、静かな店内にはっきり聞こえる音で鳴った。
……いま、返事したやつおったで。お腹のほうから。
鳴ってねえ。
すいません、その一個ください。あと、プリンと、あったかいお茶二本。
イートインの三席に並んで座ると、カオルは肉まんを、きれいに二つに割った。湯気が上がった。大きいほうを、ジンの前に置く。
……大きいほう、お前のだろ。
割ったときに大きいほうを渡すのは、うちの家の決まりやねん。兄がいつも先に取るから、私が割る係になってから、そうしてる。
……じゃあ、もらう。契約だからな。
そんな大げさなもんちゃうわ。
ジンは新刊をカウンターに置いた。袋に入れてもらったのに、すぐ取り出して、表紙を眺めている。
なあ、ジン。ぼっち・ざ・ろっく!って観た? 昼間にうちのテレビで流してたら、止まらんようになって。
……観た。押し入れでギター弾いてるやつだろ。
そう、それ。取り柄がないと思ってた女の子が、中一のときにテレビでバンドマンのインタビューを観て、お父さんのギターを借りて、ずっと弾いてたら、動画投稿サイトで「ギターヒーロー」って呼ばれるくらいうまくなってん。[1]
せやのに人見知りが度を越してて、バンド組むどころか友達もできひんねん。家におるときは、暗い押し入れでずっとギター弾いてる。[1]
あの子の顔芸、毎回ほんまに声出して笑ってまう。ギャグアニメの間やねん、あれ。
笑うとこじゃねえだろ。
え、笑うとこやで。
……人前で弾けねえのに、うまいのは、分かる。誰も聴いてねえ部屋がいちばん練習できるんだよ。音を外しても、誰も顔をしかめねえから。
ジンは肉まんの最後の一口を飲みこみ、お茶のキャップを指でくるくる回した。
最初に買ったギター、中古で、弦がさびてた。張り替える金がなくて、そのまま弾いてたら、指が血だらけになった。……押し入れはなかったけどな。風呂場で弾いてた。響くから。
風呂場。ご近所さん、なんも言わんかったん?
言われた。三回。……四回目からは、下手じゃなくなったから言われなくなった。
いや、それ、上手なったから言われへんようになったんちゃうやろ。ご近所さんが諦めたんやって。
……うるせえ。
自動ドアが開いて、また閉まった。誰も入ってこなかった。センサーが、外を通った猫に反応したらしい。
お前は。こういう、一人で練習するやつの話、ほかに何が好きなんだよ。
友情とか努力とかの少年漫画らしいところに、家族と逆境がちゃんと入ってるのが、ええねん。[2]
強いチームに入りゃいいだろ。
それ言うたら話が終わるやん。……でもな、分かんねん、あれ。私、小学生のとき、男子に混じってエースで四番やってん。
……知ってる。手首見りゃ分かる。ボトル投げるとき、あれ、ピッチャーの手首だ。
よう見てるやん。……高校に上がったら、近くに女子が野球続けられるとこがなくて、ソフトボールに移ってん。弱いチームどころか、野球のチームがなかった。
カオルはプリンのふたを開けかけて、手を止めた。笑ったまま言ったのに、最後のところだけ、声が一段低かった。
ずっと、ちょっとだけ、逃げたみたいな気がしててん。野球から。
ジンは、しばらく黙っていた。それから、新刊の表紙に目を落としたまま言った。
逃げたんじゃねえだろ。場所がなかったんだろ。……場所がねえとこで、別の球、投げ続けたんだろ。それは逃げじゃねえ。移籍だ。
……移籍。
で、いまは酒の瓶、投げてんだろ。球場変えただけだ。……別に、慰めてるわけじゃねえ。
カオルはプリンのスプーンを持ったまま、天井の蛍光灯を見上げた。それから、ゆっくり笑った。
……なんで深夜のコンビニで、ジンに泣かされかけなあかんの。
泣いてねえだろ。
泣いてへんよ。泣かされ「かけ」や。……ありがと。今度、店で一杯おごるわ。
……おう。
カウンターに伏せて置いていたカオルのスマホが、短く震えた。画面に、夜九時に届いていたメッセージの通知がもう一度出る。祖母からだった。「いい人はおらんの」。
ジンの目が、一瞬だけ画面に向いて、すぐに新刊の表紙へ戻った。
……見た?
見てねえ。
おばあちゃん。毎晩これやねん。返し方、もう三年くらい分からへん。
……「肉まん半分くれる客はいる」って返しとけ。
それ、半分くれたん私のほうやん。
……じゃあ、「肉まん半分もらってくれる客はいる」。
余計に心配されるわ。
カオルは笑って、スマホを裏返した。返事は、明日の昼に、ちゃんと考えることにした。
東京来たばっかりのころな、言葉の違いで笑われるのが悔しくて、標準語を一から覚えてん。店ではいまもそっち。夜にこっちの言葉で喋れる相手、そんなにおらんのよ。
俺も東京に出てきた最初の夜、こういうコンビニで漫画読んでたら、朝になってた。行くとこもなかったしな。……店員に、三回、声かけられた。
三回で済んだん。ジンの三回、多いなあ。ご近所さんも三回、店員さんも三回。
三回目で、だいたい相手が諦めるんだよ。
レジの奥から、さっきの店員が、トレーを持って出てきた。蒸し器のふたを開け、新しい肉まんを六つ、ぎこちない手つきで並べていく。
に、肉まん、いま蒸し上がりました……!
カオルとジンは、顔を見合わせた。半分ずつ食べた肉まんの包み紙が、カウンターに二枚並んでいる。
……どうする。
……一個ずつ。今度は割らねえ。
二人はもう一度レジに並んだ。店員の男の子は、トングで肉まんをつかむのに二回失敗して、三回目でようやく袋に入れた。
……三回目で、決まったな。
諦めんかったほうの三回やな。
外に出ると、空気がひやりとしていた。ジンは何も言わずに、カオルの持っていた袋を一つ取って、歩きだした。
送らんでええよ。すぐそこやし。
……角までだ。角までなら、送ったことにならねえ。
その理屈、どこの決まりなん。
俺の。
角で袋を返すと、ジンはギターケースを背負い直して、反対の方向へ歩いていった。革ジャンの背中は、一度も振り返らなかった。そのかわり、袋の中の肉まんを、歩きながら一口かじったのが見えた。湯気が、街灯の下で白く上がった。カオルは信号が青に変わるまで見送ってから、ぼっち・ざ・ろっく!の続きを、明日の昼、何話まで観るかを考えた。今度は、押し入れの場面で笑わずに観られるかどうか、少しだけ自信がなかった。