朝九時。呉駅の改札を出たところで、ガクは鞄の中身をもう一度確かめた。年表のノートが三冊。一冊は明治から終戦まで。一冊は呉の町の移り変わり。もう一冊は、作品の中の暮らしの細かいところを、場面の順に書き出したものだった。
二人で出かけるのは初めてだった。きっかけは先月、メンバーのチャットで「年表に載らない一日を教わった映画」という話題が出たとき、ガクとゴウが同じ題名を挙げたことだった。ゴウはそれ以上何も書かなかったが、ガクが「いつか呉を歩きませんか」と送ると、三十秒で「押忍」と返ってきた。
人の流れの向こうから、角刈りの大きな男が歩いてきた。周りの人が、自然に道をあけている。ゴウだった。ガクの前で止まると、深く頭を下げた。
……ゴウです。よろしくお願いします。
ガクです。こちらこそ。……ええと、今日の段取りを、ざっと話してもいいかな。
……ああ。
主人公のすずは、広島市の江波で、海苔をすく家に育つ。絵を描くのが好きで、裁縫は苦手。十八歳で縁談が来て、呉の北條家に嫁ぐ。[2]
戦争が続いて物が足りなくなり、配給もだんだん細くなる。そんな暮らしを、すずは生まれつきのユーモアと暮らしの知恵でしのいでいく。そうするうちに、北條家にも近所の人たちにも、少しずつ受け入れられていくんだ。……僕が好きなのは、英雄も作戦会議も前に出てこないところなんだ。[2]
ゴウは「……ああ」とうなずいた。ガクはそれを、続けていいという合図だと受け取った。
駅から入船山公園までは、歩いて十五分ほどだった。歩きながら、ガクはノートの一冊目を開いた。
この公園の記念館の本館は、もとは呉鎮守府の司令長官の官舎で、明治期の建物なんだ。国の重要文化財。戦後は、しばらく占領軍の司令長官の庁舎になっていた。[4]
それで、鎮守府っていうのは、海軍の拠点ごとに置かれた役所みたいなもので、呉の場合は……町内会で言えば、町全体が一つの大きな職場の社宅、みたいな……いや、ちょっと違うな。もう少し正確に言うと……
ガクの話は長くなった。明治の軍港の始まりから、工廠の仕組み、配給の制度へ。ゴウは半歩うしろを歩きながら、ときどき「……ああ」と言った。それ以外は何も言わなかった。
公園の中の、美術館の前を通る坂道に出た。ゆるやかな坂だった。歩道にはレンガの色のタイルが敷かれ、道ばたのところどころに彫刻が立っている。
この美術館通りは、戦争の前は、町なかと海軍の工廠や病院を結ぶ道だったんだって。それが一九八〇年代に、散歩のための並木道に作り直された。日本の道百選にも選ばれてる。……同じ道でも、何のための道かは、時代で変わるんだね。[5]
坂の途中で、ガクはようやく息を継いだ。振り返ると、ゴウは道の端に寄って、ベビーカーを押す人に道をゆずっていた。それから、彫刻の一つの前で、少しだけ足を止めた。腕を組んだ人の像だった。
……ガクさん。一つ、聞いていいか。
うん、どうぞ。何でも。
その年表に、台所はあるか。
ガクは、ノートを開いたまま止まった。一冊目をめくった。二冊目もめくった。軍港の開庁、工廠の設置、市電の開通。台所は、どこにもなかった。三冊目にだけ、場面の順に、すずの献立が少し書いてあった。
……ごめん。またやった。
責めていない。
俺は、あの映画を二度観た。一度目は、息を詰めて観た。二度目は、台所と、絵を描く手を観た。……大きな話は、ガクさんの言うとおりだと思う。だが、俺が今日見たいのは、その隅のほうだ。
そうだね。僕があの映画を好きな理由も、本当はそっちだった。大きな歴史の隅で暮らす一人。それなのに、来てみたら、隅に行く前に大きな話ばっかりしてた。
ガクは、ノートの一冊目と二冊目を閉じて、鞄の底にしまった。三冊目だけを、上着のポケットに入れた。
昼は、駅の近くの食堂に入った。ガクは焼き魚の定食を、ゴウは同じものを頼んだ。運ばれてくるまでのあいだ、ガクは三冊目のノートを開いて、すずの台所の場面を、話の順に指でたどった。
僕、高校のころ、週末に近所の食堂で皿洗いをしてたんだ。洗い場が止まると、次のお客さんに皿が出ない。世界の仕組みって、自分の立ってるシンクの前にもあるんだって、そこで知った。……すずの台所を見てると、それを思い出す。
……隅にも、持ち場がある。
そう、それ。持ち場。……今の、ゴウくんのほうが一言で言えてるな。
定食が来ると、二人とも黙って食べた。食べ終えると、ゴウは自分の盆と、ガクの盆の箸の向きをそろえ、返却口へ二つまとめて運んだ。ガクがお礼を言う前に、もう戻ってきていた。
午後は、二河公園へ歩いた。呉駅から歩いて二十分ほど、二河川が山あいから町なかへ出てきてすぐのところにある公園で、大正五年に開かれたのだという。
作中で、北條家の人たちが花見に出かける公園が、ここなんだ。戦前は、呉の桜の名所の一つだったらしい。いまは、桜の名所はもう少し川下のほうに移ってるんだって。[3]
……あ、ごめん。今のは短かったよね。
……ちょうどいい。
十一月の公園に、花見の客はいなかった。運動場のほうから、子どもたちの声が聞こえてくる。二人は人の少ない木陰のベンチに座った。そこへ、茶色い縞の猫が一匹、植えこみから出てきた。
ゴウの背中が、わずかにこわばった。しゃがみこみ、上着のポケットに手を入れる。小さな袋が、かさりと鳴った。
ゴウくん。それ、猫のおやつ?
……ああ。いつも持っている。たいてい、逃げられる。
そうか。……でも、公園の猫には、あげないほうがいいと思う。僕の町内会でも、外の猫の餌やりはいつも話し合いになるんだ。誰かが一度あげると、その場所に猫が集まって、そこで暮らしてる人や、世話を引き受けてる人の手が回らなくなる。かわいいと思う人と、困る人が、同じ道を使ってるから。
ゴウはポケットの中の手を止めた。しばらく猫を見て、それから、袋から手を離した。
……筋が通っている。ここは、この町の人の公園だ。
ゴウはしゃがむのをやめて、ベンチに座り直した。猫のほうは見ないようにして、まっすぐ前を向いた。ガクも、隣で同じようにした。
しばらく、何も起きなかった。風が、木の葉を少し落とした。運動場の声が、遠くなったり近くなったりした。
やがて、ベンチの端に、小さな重みが乗った。猫が、ゴウから人ひとりぶん離れたところに座って、前足をなめはじめていた。ゴウは、動かなかった。息をしているのかどうかも、ガクには分からなかった。
……何も、渡していない。
うん。隣に座ってるだけで、来る日もあるんだね。
ガクは、自分の声が少しかすれているのに気づいた。動物の出てくる小さな話には、昔から弱い。いまのこれは物語ではなかったが、たぶん同じ場所に効いていた。
すずもさ、最初は何か役に立とうとして、失敗ばっかりするだろう。でも、近所の人に受け入れられていくのは、何かを差し出したからだけじゃない気がする。毎日そこにいて、同じ台所に立って、同じ道を通ったから。……っていうのは、僕の読みだけど。
……居場所は、渡すものではなく、座るものか。
今日いちばんの要約だ。ノートに書いていい?
……好きにしろ。
ガクはポケットから三冊目のノートを出して、最後のページに一行だけ書いた。年表ではなかった。日付もなかった。ゴウはそれをのぞきこまなかった。猫は、前足をなめ終えると、ゴウの膝に一度だけ鼻先を近づけて、植えこみのほうへ帰っていった。
ゴウは植えこみのほうを見ていた。ガクは鞄の底から一冊目のノートを出しかけて、やめた。代わりに、「次は、ゴウくんの観たいものを先に聞くよ」と言った。ゴウは少し考えてから、「……猫の出てくる話がいい」と答えた。ガクは、それなら三本知っている、と言いかけて、一本だけにした。翌週、ゴウから感想が届いた。「……筋が通っている」。