十時。太田川駅の一階の改札前に、ハルとアカリが並んで出てきた。柱の前で、作業着の男の人が文庫本を閉じた。タカシだった。
タカシさん、早いですね!
九時と伺っていましたので。
ハルは携帯電話を出して、昨夜のメッセージを見た。アカリへは「十時」。タカシへは「九時」。指が一つ、隣の数字を打っていた。
……すみません! 一時間、待たせました。
いいえ。駅を一周するには、ちょうどいい時間でした。
アカリは何も言わずに、タカシに軽く頭を下げた。タカシも同じ角度で下げた。二人のあいだに、ハルがちょうど一人ぶん立っていた。
旅を決めたのはハルだった。アカリと『メダリスト』の話で盛り上がった帰り道に、「愛知なら、タカシさんの好きな作品の町もある」と思いついた。アカリは少し考えてから「三人ならいい」と言った。アカリのお母さんには、ハルが行き帰りを付き添うと約束してある。
五つ子って、見分けつくの?
……顔では、つきません。私は、選び方で見分けています。同じ顔で、選び方が五通りある。そこが好きなんです。
ふうん。私と兄ちゃんは、顔も選び方も正反対ってよく言われる。
タカシは鞄から、四つ折りの紙を一枚出した。手書きの予定表だった。時刻が左に、行き先が右に、定規で引いた線のあいだにきちんと並んでいる。
アカリが横からのぞきこんで、最後の二行で目を止めた。「十四時三十分 解散。アカリさんは十五時の電車」。その上に、「学校のモデルとされる場所には行きません」。
これ、誰が決めたの。
……決まりですので。
私、説明のない決まりがいちばん嫌い。
語尾が強くなった。タカシの手の中で、予定表の端が少し曲がった。改札を出入りする人の足音だけが、しばらく続いた。
タカシさん。理由、ありますよね。たぶん、ちゃんとしたのが。
タカシは、考えるときの間を、いつもより長くとった。それから、予定表をアカリのほうへ向けて持ち直した。
十五時は、アカリさんのお母さまが、暗くなる前に帰ってきてほしいとハルくんに伝えていたからです。そこから逆に数えました。学校は、そこで毎日学んでいる人たちの場所です。モデルとされている場所でも、門の前で知らない大人に写真を撮られるのは、通っている人にとって気持ちのいいことではないと思いました。……最初から、書いておくべきでした。
……それなら、いい。学校は、私も行かない。千葉に行ったときも、同じこと言ったし。
最初からそう言ってくれたら、私、文句言わない。言わないで決められると、迷惑かける前提で見られてる気がするだけ。
……はい。そういうつもりでは、ありませんでした。ですが、そう見えるやり方をしていました。
タカシは胸ポケットからペンを出し、予定表のいちばん右に、定規なしで縦の線を一本引いた。その上に、小さく「理由」と書いた。
三人は駅の中を見て回った。一階が改札とコンコース、二階と三階がホームという、三層になった高架の駅だ。二階のホームと三階のホームのあいだには、「中三階」という連絡の階まである。
この駅で、常滑線から河和線が分かれます。昭和六年に知多鉄道という鉄道がここにつながって、接続の駅になりました。九十年以上、ここで線路が分かれてきたわけです。……また歴史の話にしてしまいましたね。[2]
駅の話でしょ。いいよ。中三階って、なんか秘密の階っぽくて好き。
東口に出ると、駅前広場が広がっていた。ハルが携帯電話を構えて、広場の真ん中へ後ずさりしていく。駅舎をまるごと画面に入れたいらしい。
ハルさん、そこ、バスから降りた人の通り道。
ハルの後ろを、ベビーカーを押す人が、ぎりぎりのところでよけていった。ハルは「すみません!」と頭を下げ、植え込みの脇まで下がった。アカリは何も言わずに、ハルが下がった場所の半歩横に立って、人の流れを見ていた。
撮るなら、人の流れの外側からですね。駅は、ここを毎日使う人のものですから。
はい。……二人とも、同じこと考えてる顔してましたよ、いま。
昼は、駅の近くの食堂に入った。アカリは大盛りを頼み、タカシは並を頼み、ハルは迷って大盛りにした。話は『メダリスト』になった。
舞台は愛知県で、作者の出身地なんです。主人公が練習する場所として、名古屋市に本当にあるスケートリンクが出てきます。[3]
コーチになる人がスケートを始めたのは、高校に入ってから。ものすごく遅いんです。教わる女の子は小学5年生。僕が好きなのは、大人が子どもの話を最後まで聞いてあげる場面です。[3]
タカシの箸が止まった。それから、アカリのほうを向いた。
アカリさんは、どの場面が好きですか。
アカリは一瞬、驚いた顔をした。タカシが自分に質問をするのは、初めてだった。
……リンクの受付の人。女の子がスケートをやらせてもらえなくて、それを見てた受付の人が、小鳥のエサのミミズを取ってきたらリンクを使わせてやるって約束して。四年くらい、お母さんに内緒で滑らせてあげてたの。[3]
大人が、決まりの外で子どもの場所を作ってる。私、説明のない決まりは嫌いだけど、これは逆。決まりを曲げてでも、その子の「やりたい」を守ってる。……でも、こっそりじゃなくて、ちゃんと説明できたらもっといいのにって、二回目に観たとき思った。
タカシは途中で一度も口をはさまなかった。アカリが話し終えてからも、しばらく黙っていた。ハルが、テーブルの下で小さくこぶしを握った。
「ちゃんと説明できたら」というのは、どういう意味ですか。
守られてる側が、なんで守られてるか分かってたら、自分で選べるでしょ。分かんないまま守られてると、いつか急に取り上げられそうで、怖い。
……そうですね。私は仕事でも、説明より先に決めてしまうことがありました。家庭教師の物語なのに、教える側がいちばん教わっている。今日の私は、それです。
教えてないし。訊かれたから答えただけ。
それがいちばん難しいんだって。訊くほうも、答えるほうも。
十四時半。三人はホームにいた。アカリとハルは名古屋方面の電車に乗る。タカシは、次の電車を待つことにしていた。
タカシさん。次も理由の欄がついてるなら、行く。
はい。次は、最初から書いておきます。
次は、時刻も二回確かめます!
その夜、タカシは家の机で予定表を広げた。右端の「理由」の欄は、最後の一行だけがまだ空いていた。「十四時三十分 解散」。タカシは少し考えてから、そこに書いた。「アカリさんのお母さまとの約束。ハルくんとの約束。それから、アカリさんと次に話すための約束」。約束の順番を、今日は最初から決めておけた。予定表をたたんで、タカシは一話だけ観た。今夜は分析しないで。