テーブルには、ナポリタンが一皿と、ホットケーキが一皿と、紅茶が三つ。ナギはフォークを持ったまま、しばらくナポリタンを巻かずにいた。向かいのスイは、それに気づいていて、何も言わずに待っている。レンは、メニューの裏の小さな字の説明を読んでいた。
あのね。今日は、ちょっと相談があって。私のじゃなくて、職場の後輩のなんだけど。
うん。
好きな人がいるんだって。同じ会社の別の部署の人。で、映画に誘いたいって。それでね、「恋愛映画って、重いですか」って聞かれたの。私、「どうだろうね」しか言えなくて。
なるほど。……先に言っておくと、僕は恋愛の相談に答えるのは、たぶん得意じゃない。でも、映画の側の話ならできるかもしれない。
それでいいの。私も、答えを知りたいっていうより、何を言えばよかったのか、分からなくて。
スイは紅茶のカップを両手で包んで、少しだけ考えた。
後輩さんが観たい映画、もう決まってるの?
まだ。だから、恋愛映画にするかどうかで迷ってるみたい。スイちゃん、恋の映画、詳しいよね。
詳しいかは分からないけど、何度も観てるのはある。『花束みたいな恋をした』。
『花束みたいな恋をした』は、2021年1月公開の日本映画。土井裕泰が監督し、菅田将暉と有村架純が主演した。脚本は坂元裕二のオリジナル。主人公の男女の関係が、5年のあいだにどう変わっていくかを追っている。[1]
あの映画で私がずっと覚えてるのは、二人が、好きなものの名前を言い合う場面の空気。同じ本や同じ音楽の名前が出るたびに、言葉より先に、顔がほどけていく。私はあれを、「この人には説明しなくていい」と分かった瞬間の顔だと受け取った。
説明しなくていい、か。……それ、恋じゃなくても嬉しいよね。
うん。だから、あの映画を誰かと観に行くのは、少し勇気がいるかもしれない。自分たちの話に見えてしまうから。重いかどうかで言えば、観たあとに話すことが多い映画、かな。
構造の話をすると、あの映画は「5年間」という長さそのものが仕掛けになってる。一本の映画で、出会いの日の熱と、何年もたったあとの日常を、同じ二人で見せる。だから観る人は、自分がいまどの年にいるかで、刺さる場面が変わるはずなんだ。
ねえレン、それって、まだ付き合ってもいない二人が観たら、どこが刺さるの?
レンは、少しのあいだ黙った。それから、正直に首を振った。
……分からない。考えたことがなかった。いい質問だと思う。たぶん、出会いの場面しか自分のこととして見えないんじゃないかな。残りの時間は、まだ知らない未来として観る。……だとしたら、初めて二人で観る映画としては、意外と悪くないのかもしれない。
私は、レンの言う「まだ知らない未来」って言い方、好き。根拠はないけど、そう受け取れる気がする。
根拠は、いまナギの質問で一個できた。
ナギちゃん、後輩さんに聞かれたとき、どんな顔してた?
お昼休みの給湯室でね。お湯が沸くのを待ってるあいだに、急に。顔は……真剣だった。でも、聞いたあとに、すぐ「なんでもないです」って笑ったの。
そっか。……私はそれを、もう半分くらい決めてる人の顔だと受け取った。決めてない人は、たぶん「なんでもない」って言わない。誰かに背中を押してほしいんじゃなくて、押さなくていいよって言ってほしいのかも。
スイの読みは、根拠が表情と言葉の順番にある。真剣、質問、すぐ笑う。順番が逆なら、意味も変わる。……僕には、その順番は拾えても、そこから気持ちまでは読めないけど。
二人で一人分、って感じだね。……あ、ごめん、悪い意味じゃなくて。
ううん。いい意味に受け取った。
ナギはようやくナポリタンを巻いた。ケチャップの匂いが立って、隣の席の親子連れの子どもが、こっちの皿をうらやましそうに見た。
スイはホットケーキを四つに切り分け、一切れをナギの皿に、もう一切れをレンの皿にのせた。レンは礼を言ってから、それを食べるより先に、メニューの裏の「当店のホットケーキの焼き方」をもう一度読みはじめた。ナギは、その横顔を見て少し笑った。
私ね、恋の話っていうと、いつも『きのう何食べた?』を思い出すの。あれ、恋愛の漫画だと思って読んでなかったんだけど。
よしながふみの漫画『きのう何食べた?』は、講談社の『モーニング』で2007年から連載が続いている。描かれるのは、2LDKのアパートで一緒に暮らす2人の毎日。几帳面な弁護士の筧史朗と、人当たりのいい美容師の矢吹賢二の話で、中心にあるのはいつも食事だ。2019年には、テレビ東京系でテレビドラマになった。[2]
好きって言う場面より、今日の晩ごはん何にする、っていう場面のほうが、ずっと多いの。でも読んでると、ああ、この二人は好きなんだなって分かる。献立の相談が、そのまま気持ちの相談になってる感じ。
分かる。言わなかった気持ちが、お皿の上に出てる。
あれは、事件をほとんど起こさない構造なんだよね。大きな出来事がない代わりに、毎日の繰り返しのほうに、変化を少しずつ置いていく。……だとすると、映画に誘うのは事件のほうで、そのあと一緒にごはんを食べるのが繰り返しのほう、ってことになる。
あ。……そっか。映画が何かより、観終わったあと、どこでごはん食べるかのほうが大事かも。
ナギはフォークを置いて、少し笑った。それから、また真顔に戻った。
でもね、それを後輩に言うのも、なんか違う気がするの。私が決めてあげることじゃないし。
うん。私もそう思う。ナギちゃんが答えを渡すより、後輩さんが自分で選んだ映画を、「いいね」って言うほうが、たぶん届く。重いかどうかは、二人で観たあとに二人で決めることだから。
僕からは一個だけ。上映時間は確かめておいたほうがいい。長い映画のあとだと、ごはんの店が閉まってることがある。
あはは、それがいちばん役に立つかも。……レン、それ、実体験?
……映画の話をしすぎて、店に入りそびれたことは、ある。一人で。
スイが小さく笑い、ナギは声を出して笑った。窓の外の商店街を、紙袋を提げた二人連れがゆっくり通りすぎていった。ナギはスマートフォンを出して、後輩に短いメッセージを打った。「どの映画にするか決めたら、教えてね。観たあとのごはんの店なら、一緒に考えるよ」。
送った。今日はこれだけにしとく。一個だけ。
うん。それで十分だと思う。