目錄
6選の三つめは映画『花束みたいな恋をした』です。6本の中では、いちばん大人になってから出会った作品かもしれません。好きなものが同じ二人の話。観終わったあと、私は自分の本棚をしばらく眺めていました。今回は結末や二人の関係の行方には触れずに書きます。
本棚を眺めた夜
働き始めて何年か経ったころ、映画館で観ました。帰り道、駅から家まで歩くあいだ、一言もしゃべらずにいたのを覚えています。悲しかったのか、うれしかったのか、そのときは名前がつけられませんでした。家に着いて、まず本棚の前に立ったんです。ここに並んでいる本のことを、誰と話したかったんだろう、と考えながら。喜好
脚本は坂元裕二さんの書き下ろしで、2020年の東京を舞台にした作品です。主役を演じるのは菅田将暉さんと有村架純さん。事實[1]
監督は土井裕泰さんです。事實[2]
麦と絹の出会いは偶然です。場所は東京、京王線の明大前駅。終電を逃したことがきっかけでした。事實[3]
音楽も映画も、好きなものが嘘みたいに重なっていて、二人はたちまち恋に落ちます。事實[4]
好きな理由1 固有名詞が二人の距離を測る物差しになる
この映画には、本や音楽や映画の名前がたくさん出てきます。最初、私はそれを「二人が似ている証拠」として受け取っていました。同じ名前に同時に反応して、目を見合わせる。そのうれしさは、好きなものを持っている人なら、きっと覚えがあると思います。作品中的觀察
でも観ているうちに、名前の出方そのものが、二人の距離を測る物差しになっていると感じました。同じ名前を口にしても、言い方の温度が少し違う。好きなものは同じでも、それを好きでいる時間の流れ方が、人によって違うのだと思います。解讀
好きな理由2 二人の声が同じ出来事を別々に語る
この作品では、二人それぞれの心の声が重なるように語られます。同じ場面を、同じ時間に、別々の言葉で受け止めている。私はこの重なりがとても好きです。同じものを見ているのに、心の中の文章は少し違う。その小さな差に、関係の手ざわりが全部詰まっている気がします。作品中的觀察
あの語りの重ね方、仕組みとしても面白いよね。二人の声がぴたりと重なるところと、少し言葉が違うところを並べると、観客は台詞より先に二人の距離感に気づける。有依據的推測
うん。私は、ずれた瞬間に気持ちのほうを補っちゃうんだけど。レンの言う「並べる」をやると、その違いがちゃんと画面にあるんだね。
ただ、その「ずれ」を寂しいと感じるか、自然なことと感じるかは、構造だけじゃ決まらないと思う。そこはスイの読みのほうが近い。解讀
好きな理由3 生活の細部が恋を地面に下ろす
この映画の恋は、きらきらしているのに、いつも生活の上にあります。近所のパン屋、拾った猫、家賃や仕事の話。恋の場面と、食器を洗う場面が、同じ重さで並んでいる。私はそこに誠実さを感じます。好きな人と一緒にいるということは、好きなものの話をする時間だけでなく、話さない時間も一緒に過ごすことなんだと思います。解讀
だからこそ、この作品は私に「同じ好みと、同じ人生は別のもの」という問いを置いていきました。好みが同じことは出会いの入口にはなるけれど、それだけで同じ道を歩けるわけではない。それは悲しいことではなく、人が一人ずつ違うということの、ごく当たり前の確認なのかもしれません。解讀
観たあとに私が変えたこと
この映画を観てから、私は誰かと好きなものが重なったとき、そのうれしさと一緒に、もう一つ質問をするようになりました。「それの、どこが好き?」と。同じ作品を好きでも、好きな場面や好きな理由は、驚くほど違います。違いを聞くと、相手のことが前より少し立体的に見えてきます。喜好
好みが重なることは、会話のきっかけになります。でも、関係を育てるのは、たぶん重ならない部分の話です。この映画は、その当たり前のことを、まぶしい時間ごと見せてくれました。私はそう受け取っています。解讀
苦手かもしれない人へ
恋愛映画は気恥ずかしい、という人もいると思います。そういう人は、恋の場面よりも、二人の部屋に何が置いてあるかを眺めるつもりで観てみてください。本棚、食器、玄関の靴。部屋に並ぶものを眺めるだけでも、二人がどんな時間を過ごしているかが伝わってくる気がします。喜好
ほかの5作とのつながり
高校で出会った『舟を編む』で、私は言葉を丁寧に選ぶことの楽しさを知りました。この映画の二人の語りを聞いていると、同じものを好きでも、選ぶ言葉は一人ずつ違うということを、もう一度思い出します。そして『やがて君になる』で覚えた、気持ちに早く答えをつけない読み方が、この映画を観るときの支えになりました。喜好
好きなものが同じ人に出会えたら、それはとても幸せなこと。そのうえで「どこが好き?」と聞いてみる。違いの中にその人がいるから。