土曜の工房には、たいていソウタがいる。今日は、現場帰りのタカシが作業着のまま、ほつれた道具袋の繕いを頼みに来ていて、イタリアから届く生地の段取りを伝えに来たガクが、作業台の端で待っていた。ソウタはソファの前の床に、図書館の袋から学習まんがを出して並べている。
タカシさん、これは底の角からほつれてますね。糸は太いのに替えて、二重に縫っておきます。
ねえ、月って、なんで形がかわるか知ってる?
……知っているつもりでしたが、いま聞かれると、うまく説明できる自信がありません。
これに書いてあるよ。理科ダマン。学童でとりあいになったの。ぼく、順番まちのあいだに月の絵をかいてならべた。
科学の天才のシンが、身のまわりの疑問に答えていく漫画なんだね。月の形のほかに、油はなぜ水に浮くのか、なんてのもある。[1]
マガジンハウス。原作シン・テフン、画ナ・スンフン、訳・呉華順。1巻は2021年8月発売
ソウタはうなずいて、もう一冊を両手で持ち上げた。分厚い、歴史の学習まんがだった。
これはおねえちゃんの。しゅくだいでつかうんだって。ねえ、どれから読めばいいの?
私は、いちばん最初の巻から順にたどりたくなります。組織が生まれて、大きくなっていく流れですから。
集英社の新版『学習まんが 日本の歴史』は本編20巻と別巻2冊
僕も最初の巻からです。狩りや漁のめぐみを分け合っていた暮らしが、稲作と金属器が伝わって変わっていく。ムラからクニへ。分け方の決まりが生まれるところから追いたいんです。[3]
1巻「日本のあけぼの」
なるほど。決まりごとが生まれる前から、ですか。蓄えができると、それを誰が分けるかが問題になる。分ける人が、やがて指導者になっていく。
そうです。町内会で言えば、祭りの予算を誰が分けるか、の話で。その前の、蓄えのない暮らしの決まりごとがどうだったかというと……
私が子どものころ祖父の本棚で見ていた歴史全集では、そのあたりの挿絵がとても小さくて……
僕も父の書棚の全集でした。あの図版の注が細かい版で、比べると今の学説とは……
二人の声はだんだん低く、速くなった。出てくる本の題名も、ソウタが一度も見たことのないものばかりになっていく。ソウタは床から二人の顔を交互に見上げた。
ねえ。いまの、なんの話?
タカシとガクは顔を見合わせた。ルカーノが待ち針を口から外して、目尻を下げた。
お二人とも、いま、ずいぶん昔まで行ってましたね。
……ごめん、またやった。
私もです。ソウタくん、どの巻からでもいいんです。最初にそう言えばよかったですね。
ソウタはいちばん最初の巻の目次を指でたどって、ある行で止まった。
それだったら、ぼく、ここから読む。ナウマンゾウがごちそうって書いてある。[3]
僕らが言ってた巻の、いちばん最初の章だ。……結局、いちばん前まで戻ったね。
繕いを待つあいだ、タカシの鞄の口から一冊の漫画がのぞいていた。ソウタがそれに気づいた。
それもまんが? だいふごうって、なに?
とてもお金持ちの人のことです。これは若い起業家の方に貸していて、今朝戻ってきたんです。次の方に回す前に、持ち歩いていました。
『ユダヤ人大富豪の教え コミック版』(大和書房・だいわ文庫)。1巻は2007年5月刊
原作は、日本の若い人が、アメリカにいるあいだに一人のお金持ちのお年寄りと出会って、幸せなお金持ちになる秘訣を教わっていく話ですよね。[4]
その人、おうちに帰れたの?
タカシの返事が止まった。ルカーノの手も、待ち針を一本持ったまま止まった。
……どうだったでしょう。私は、お金の話ばかり覚えていて、その人が家に帰れたかどうかを、覚えていないんです。
僕も覚えていません。読んだのに、お金の成り立ちのことばかり考えていました。
じゃあ、二人とも、もういっかい読まないと。
そうですね。次の方に回すのは、読み返してからにします。
……ま、それでもいいさ。タカシさん、袋はもう少しで縫い上がりますよ。
ルカーノが道具袋の縫い目を確かめているあいだに、ソウタはもう床に寝そべって、ナウマンゾウのページを開いていた。ガクは横から一度だけのぞきこみ、何か言いかけて、口を閉じた。