五時十分。名画座の古い扉を押して外へ出ると、空はまだ少し明るかった。今日の上映は『風立ちぬ』。前から五列目に、作業着の男の人と、黒髪の高校生が並んで座っていた。
駐車場には、荷台に空の花桶を積んだ白い軽バンが一台。タカシの会社の車だ。タカシは鍵を出して、少し迷ってから、ハヤテに差し出した。
ハヤテくん。帰りの運転を、お願いしてもよろしいですか。
……いいんですか。
ええ。今日は助手席で、考えごとをしたいので。
では、お預かりします。
ハヤテは運転席に座ると、シートの位置を二回、ミラーを三か所直した。エンジンをかける前に、両手でハンドルを一度だけ握って、目を閉じた。
それは、お祈りですか。
いえ。頭の中で、帰り道を一回走りました。
……一回で、全部ですか。
信号の数まで。十七個です。
軽バンは、駐車場を出るところから、驚くほど静かだった。発進も、曲がるのも、止まるのも、荷台の花桶が一度も鳴らない。
……カートの大会で見るハヤテくんとは、別人ですね。
道は、みんなのものですから。速さを競うのは、サーキットでやることです。
そうでした。何度も聞いていたのに。
風立ちぬは、何度目でしたか。
三回目です。……でも、大きい画面は初めてでした。
私は二回目です。前に観たのは、公開された年の夏でした。もう十年以上前になります。
『風立ちぬ』は2013年公開
僕、六歳です。
……そうなりますね。
最初に観たときは、飛行機がたくさん出てくる映画だと思ってました。
違いましたか。
空に憧れてる男の子の話から始まるんです。夢の中に飛行機の設計家が出てきて、その人に励まされて、自分も設計家になると決める。だから、飛ばす人じゃなくて、飛行機を作る人の話でした。[1]
僕は飛ばすほうになりたいので、最初は、ちょっとだけ遠い話に見えました。
今日は、どうでしたか。
今日は、近かったです。設計の机に向かってる場面で、ずっと手元ばっかり見てました。整備してるときの自分と、手の動かし方が似てる気がして。
ハヤテくんは、乗るのと同じくらい、直すのが好きですからね。
……好きです。速さの話ばかりしてると思われるんですけど。
航空技術者だった堀越二郎さんの半生と、作家の堀辰雄さんの小説。あの映画は、その二つを題材にしていると聞いています。[1]
舞台は大正から昭和の前半の、東京や名古屋や軽井沢。私はつい、あの時代の工場や会社が、どういう順番で若い技術者を育てていたのかを考えてしまって……[1]
……また歴史の話にしてしまいましたね。
いえ。僕、そこは聞きたいです。工場の話なら。
では、一つだけ。
タカシは、新しい技術を組織が受け入れるときの話を、一つだけした。ハヤテは前を見たまま、うなずきながら聞いていた。信号が黄色に変わると、ハヤテは手前の停止線で、ぴたりと止まった。荷台の花桶は、やはり鳴らなかった。
紅の豚も、少し似てますよね。
ええ。
壊れた飛行艇をミラノの工房に持ちこんだら、十七歳の女の子が、ボディの設計と修理を受け持つことになるところ。……僕、あそこを何回も観ました。[2]
主人公より、その子のほうですか。
乗り手を黙って支える人に、弱いんです。整備してる人が出てくる場面だけ巻き戻して、エンジンの音を聞き比べたりして、それで、ボルトを締める順番が——
……あ、すみません。しゃべりすぎました。
いいえ。運転は、まったくぶれていませんでした。
それは、別の回路なので。
しばらく、車の中は静かだった。国道に出ると、前を走るトラックのテールランプが、夕焼けの残りと混ざって並んでいた。
ハヤテくん。来年の遠征のことですが。
はい。
もし、費用の面で、私に何かできることがあれば……
自分で走りたいので。
……はい。
これで、十一回目です。
数えていましたか。
すみません。断るたびに、ありがたいと思うので、覚えちゃって。
タカシは助手席で、少しだけ笑った。それ以上、遠征の話はしなかった。かわりに、窓の外の、もう暗くなりかけた田んぼを眺めていた。
タカシさん。機械が運転する時代になったら、僕の腕って、要らなくなりますか。
タカシはすぐには答えなかった。考えるとき、いつも少し間が空く。
……歴史のたとえを一つ、と思いましたが、やめておきます。私には、分かりません。
分からない。
ええ。ただ、今日の映画を観ていて、一つだけ思いました。あの主人公は、飛ばす人としてではなく、作る人として、ずっと空のことを考え続けていましたね。
操縦する手が要らなくなる日が来ても、空や道のことを考える人は、いなくならないのかもしれない。……これは、答えではありませんが。
……速さは、ブレーキの手前で決まるんです。
はい?
どこで止まるかを決めてるのは、いまはまだ、人なので。それがいつまでそうなのかは、僕にも分かりません。
では、二人とも分からない、ということで。
はい。二人とも。
主題歌の、ひこうき雲。[1]
荒井由実さんの。[1]
あれが流れてるあいだ、僕の手、ずっとハンドルの形になってました。
知っています。隣で見ていましたから。
……見ないでください。
すみません。年を取ると、隣の手もとがよく見えるようになるもので。
六時ちょうど。軽バンは、隣りあう二軒の家の前に止まった。ハヤテが数えていた信号は、本当に十七個だった。タカシの家の庭では、夕方の水やりを待つ鉢が並んでいる。ハヤテの家の窓は、まだ暗い。
鍵、お返しします。ありがとうございました。
こちらこそ。いちばん静かな帰り道でした。
それ、ほめてますか。
最大限に。
ハヤテは自分の家の玄関で一度振り返り、軽く頭を下げた。少しして、ハヤテの家の窓に明かりがついた。タカシは庭の鉢に水をやりながら、その明かりを見ていた。