茶道の稽古場で出会ってから、ずいぶん長いつきあいになるミサさんとシズカ。好きなドラマの話はいつまでもかみ合わない二人ですが、今日はミサさんが、めずらしく静かに聞きました。「シズカ、いちばん大変だったころって、いつ?」
朝五時の台所
そうですね……いちばん、と言われたら、上の子たちが食べ盛りで、下の子がまだ小さかったころです。ゲンさんが陸の仕事に移ったあとですね。
あら、ゲンさんが遠洋にいたころじゃないの? そっちのほうが大変そうに見えるけど。
海の上にいたころは、張りつめていたんです。私がしっかりしなきゃ、と思っていたので、かえって倒れませんでした。ゲンさんが帰ってきて、ほっとしたら、今度は疲れが一度に出てきたんですね。それに、子どもが大きくなると、食べる量がまるで違うんです。
食べる量。あなたの家なら、想像がつくわ。
朝は五時前に起きて、まず炊飯器のふたを開けます。前の晩に予約しておいたごはんで、お弁当をいくつも詰める。ゲンさんの朝も早いので、そのあいだに朝ごはんも出して。お弁当箱を並べると、台所の台がいっぱいになるんです。全部詰め終わるころには、もう炊飯器が空っぽ。
朝から一回空になるの?
朝に一回、夕方に一回、夜にもう一度お米を研ぎます。一日に何度炊いているのか、途中で数えるのをやめました。献立を考えるのは得意なはずなのに、毎日続くと、頭の中が真っ白になる日があるんです。冷蔵庫を開けて、閉めて、また開けて。
洗濯物を握ったまま
夜は? 子どもたちが寝たら、少しは休めたの?
夜は、洗濯物です。十時過ぎに居間に山盛りの洗濯物を広げて、テレビをつけて畳みはじめる。それが、気づくと朝なんです。タオルを半分に折ったまま、手に握って眠っていたことが何度もありました。目が覚めると、肩に誰かが毛布をかけてくれていて。
……それ、ゲンさん?
たぶん、そうだと思います。本人は何も言わないんですけれど。……ゲンさんには内緒にしてくださいね。
ゲンさんが海の上にいたころも、そうやって眠ってたの?
あのころは、眠るのがこわかったんです。夜中に子どもが熱を出したら、起きられるのは私しかいませんから。洗濯物を畳み終わっても、台所の明かりをつけたまま、次の日の献立をノートに書いていました。ゲンさんが陸に戻ってきて、夜中に代わりに起きてくれる人ができて、それでやっと、眠ってしまえるようになったのかもしれません。
安心したから眠れるようになった、ってことね。それは疲れのせいだけじゃないわ。
資格はあるのに
あなた、管理栄養士でしょう。そういうの、仕事で身につけた段取りで、すいすい回せるものだと思ってた。
それが、そうでもないんです。私は早くに結婚したので、病院の厨房で働いたのは数年だけでした。資格は取ったのに、外で働いた年数はとても短い。同じ学校を出た友だちが、職場で頼られている話を聞くと、少しだけ……うらやましくなることがありました。私は家のことしかしていない、って。
家のことしか、ね。七人分の三度の食事を、毎日、栄養も量も味も落とさずに回してる人が言うと、ずいぶん聞こえが違うわよ。
ミサさんは、昔からはっきりおっしゃいますね。
言うわよ。私もひとりで子どもを育てたから、少しは分かるの。夜中にお弁当の下ごしらえをして、朝は何もなかった顔でレッスンに出る。誰も見てないところの仕事って、自分でも数えなくなるのよね。
本屋さんで手に取った一冊
それで、そのころ支えになった作品があるって聞いたけど。
はい。『甘々と稲妻』という漫画です。買い物の帰りに本屋さんに寄って、料理の漫画の棚にあった一冊を、なんとなく手に取りました。夜、洗濯物を畳み終わったあとに、一話だけ読むことにしたんです。それなら眠ってしまう前に読み終わりますから。読み終わると、ちょうど眠くなるんです。洗濯物の山の上に漫画を伏せて、そのまま朝、ということもありました。朝、ゲンさんに「漫画がタオルの山にはさまってたぞ」と手渡されたこともあります。
講談社の作品ページは、『甘々と稲妻』を、高校の先生をしている犬塚さんと、娘のつむぎちゃんのお話として紹介していて、手作りの料理に彩られた、父と娘が育っていく物語だと書いています。作者の雨隠ギドさんが「good!アフタヌーン」で連載を始めたのは、2013年2月のことです。事实[1]
料理の漫画なら、あなたにはお手のものでしょう。
それが、このお父さんは料理が苦手なんです。包丁もおっかなびっくりで、手順もひとつずつ確かめながら。それでも、娘さんのために台所に立つ。私はそれを読んで、ずいぶん楽になりました。解读
一品でいいと思えた
楽になった? 料理が下手な人の話で?
はい。このお父さんの台所は、ごちそうを何品も並べる台所ではないんです。湯気の立つものが、食卓に一つ置かれる。それなのに、その一品ができると、食卓の空気がふっと変わる。読んでいて、ああ、一品でいいんだ、と思えたんです。私はいつのまにか、毎日全部をきちんとそろえなければ、と自分を追いつめていたんですね。解读
あなたらしいわ。きちんとしすぎて、自分の首をしめるの。
それから、食べる娘さんの顔です。おいしいときの顔を、この漫画はとても大事に描いています。読みながら、私は自分の家の食卓の顔を思い出しました。疲れていると、作ることばかり考えて、食べている子どもたちの顔をちゃんと見ていなかったな、って。解读
顔を見るのは、作る人のごほうびだものね。
ええ。次の日の夕ごはんで、子どもたちの顔をひとりずつ見ていたら、下の子に「お母さん、なんで笑ってるの」と聞かれました。おかずは、いつもと同じだったんですけれど。
いまの小さな決まりごと
いまは? 少しは楽になった?
上の子たちが大きくなったので、ずいぶん楽になりました。それでも、洗濯物を畳みながら眠ってしまうのは、相変わらずです。ただ、ひとつだけ決まりごとができました。どうしても疲れた日は、汁ものを一つ、しっかり作る。あとは焼くだけ、並べるだけでいい。その日の一品を決めたら、残りは手を抜いていい日です。喜好
それ、いい決まりね。管理栄養士のお墨つき?
いいえ、これは台所番のお墨つきです。……ミサさん、話しこんでいたら、もうこんな時間ですね。まずは、ごはんにしましょう。今日はお味噌汁をたっぷり作りますから。
いただくわ。そのあとで、私のおすすめのドラマの話も聞いてもらうから。
……筋の通ったお話でしたら、喜んで。
毎日全部をそろえなくていい。湯気の立つ一品があれば、食卓の空気はちゃんと変わります。