十月の金曜、夜十時半。駅前のカラオケ店の自動ドアが開いて、部屋にいた顔ぶれが「おつかれ」と手を振りながら駅のほうへ散っていった。最後に出てきたのは二人だった。金と黒の上着のタモツと、ギターケースを背負ったジン。ジンはライブを終えたその足で、ここへ連れてこられていた。
声、半分くらい出てなかったぞ。
出てなくても、全員跳んでただろ! ジンだって、最後の一曲は。
あれは指が勝手に動いただけだ。コードを押さえる癖が出た。……それだけだ。
部屋の中でのことは、たぶん二人とも当分忘れない。一曲目のイントロが鳴った瞬間に立ち上がったのはタモツで、声は高いところで二回裏返った。それでも部屋の全員が手を挙げて跳ねていた。ソファの端で腕を組んでいたジンだけが、最後まで動かなかった。動いたのは、終わり近くの一曲の前奏で、左手が勝手にギターのネックの形をつくったときだった。
ジンは左手を握って、上着のポケットに突っこんだ。タモツの肩の上では、相棒のギアドラが、ドラゴンの形をした体で小さくプロペラを鳴らしていた。
その一曲が、今日いちばんうれしかったぜ。……なあ、ちょっと遠回りして歩かないか。八神太一の話がしたいんだ。
太一。一曲目に入れてた、あのアニメのか。
そう。オレの推しだぜ。ジンもデジモンは観てるだろ? 終わりのほうまで話していいか。
最後まで観てる。俺は相棒の側から観るほうだが、太一の側の話は聞いたことがねえ。好きにしゃべれ。
二人は駅を背にして、川沿いの遊歩道へ下りた。ギアドラが「タモツ、終電まで五十分です。今日は喉を休ませてください」と言うと、タモツは「小さい声でしゃべる」と約束して、最初の一言からもう大きな声だった。
まず、基本からいくぜ。
太一はサッカーのエースで、頭にゴーグルをのせてて、七人のリーダーなんだ。相棒はアグモンで、持ってる紋章は勇気。[1]
子どものころのオレ、プールのゴーグルを頭にのせて家の中を歩いてたんだぜ。泳がないのに。気分だけはリーダーだった。
リーダーって、誰を率いてたんだ。
ぬいぐるみを七つ並べて、ソファの上を知らない島ってことにして、端から端まで渡らせてた。もちろん先頭はオレだぜ。
七つか。数はそろえるんだな。
そこは大事だろ! 一つ足りないと、だれかが置いていかれた気がするんだ。
いまは夜でもサングラスだな。
……これは、まあ、別の話だ。それより、あの子たちがキャンプから知らない世界に飛ばされた日、オレの誕生日と同じなんだぜ。[3]
作中の冒険は1999年8月1日、子ども会のサマーキャンプから始まる
知ってる。日付は前に俺も数えた。……で、誕生日が同じだから推しなのか。
それは、きっかけの半分だな。残りの半分は背中だ。太一って、いつも一番前を走ってるだろ。考えるより先に足が出る。
オレがはじめてカードの大会に出たとき、会場の入口で足が止まったんだ。知らない人だらけで、息がうまく吸えなくて。そのとき、頭の中で太一の背中を思い浮かべた。ゴーグルの後ろ頭を追いかけるつもりで、一歩だけ入った。
……そうか。追いかける背中があると、入りが決まる。ライブの一曲目と同じだ。
でもな、俺は最初、太一がちょっと苦手だった。突っこんでいって、周りを振り回す。見てて冷や冷やする。
そこなんだよ! 太一の勇気って、最初はけっこう雑なんだ。前に一回、無茶をして痛い目を見てるのにさ。そのあとが、オレのいちばん好きなところでな。
ここから畳むぜ。
中段为止中盤の展開(その一)点击展开
タモツ「太一はな、デジタルワールドはデータでできてるって知って、ゲームみたいなもんだと思っちゃうんだ。それで、また無茶をする」
タモツ「そこで光子郎が言う。ここで死んだら、現実の世界でも死ぬんだって。それを聞いた太一は、怖くなって、前に出られなくなる。あの一番前を走ってた子が、足を止めるんだぜ」
タモツ「そこから修行をして、相棒と一緒に、もう一回戦う気持ちを取り戻す。捕まった空を助けに行って、そこでアグモンが、完全体のメタルグレイモンに進化する」
タモツ「オレが泣いたのは、進化の場面じゃない。怖いって分かったあとに、もう一回走り出すところだ。怖くない子が走るのは、勇気じゃなくて、知らないだけなんだよな」
ジン「……ステージの袖で膝が笑ってても、出の合図で出る。あれと同じか」
タモツ「そう、それだぜ! オレも大会のたびに手が震えてた。震えたまま、カードを置いてた」
タモツ「子どものオレは、太一が足を止めた回の次の週まで、ずっと落ち着かなかった。太一でも止まるなら、オレが止まるのは当たり前だよな、って。そう思えたら、少しだけ息が楽になったんだ」
ジン「止まってる奴を、次の週まで待てるのか。子どもにしちゃ気が長え」
タモツ「待つしかなかったんだぜ。放送は週に一回だからな」[1]
……そこが、いいのか。
震えたまま置いたカードで、勝てたかどうかはあんまり覚えてない。でも、置いたことだけは覚えてるんだよな。
そこは俺は少し違う。雑な勇気のころの太一も、嫌いじゃねえ。転んでも前に出る奴がいねえと、バンドは一曲目が始まらねえからな。……今日の一曲目、俺は入りを走った。
走ったのか! 客席からは全然分かんなかったぜ。
ドラムが拾った。走った奴を拾う奴がいるから、走れる。太一の周りも、そうなってるだろ。
なってる。……で、その次がな、オレがいちばん何回も観返した回の話なんだ。
中段为止中盤の展開(その二)点击展开
タモツ「大きな戦いのあと、子どもたちの中で太一だけが、相棒のコロモンと一緒に、現実の世界の自分の家に戻ってしまうんだ」
タモツ「家だぜ。自分の部屋があって、家族がいて、もう戦わなくていい。なのに太一は、置いてきた仲間とアグモンのことが心配で、またデジタルワールドへ戻っていく」
タモツ「戻ってみたら、向こうではずいぶん時間がたってて、仲間はみんなばらばらになってる。太一は、その仲間を一人ずつ集めて回るんだ」
タモツ「家の中にいるのがいちばん楽だった時期が、オレにもあった。だから、太一が自分で玄関を出ていくのが、信じられないくらいまぶしかったんだよ」
タモツ「オレはこの回だけ、一度、音を消して観たことがあるんだ。台詞が聞こえないと、太一がどれだけ迷ってるかが、かえって体の動きで分かる。迷ってないわけじゃない。迷ったまま決めてるんだよ」
ジン「誰とも約束してねえのに、戻るのか」
タモツ「口では約束してないぜ」
ジン「一緒に飛ばされた時点で、それは契約だろ? 置いていった奴のところへ戻る。破るなら、最初から一緒に行くなって話だ」[1]
ジンが言うと、あの回が急に硬派に聞こえるな。
……別に、硬派にしたつもりはねえ。
いまでも、旅に出る朝は玄関で一回だけ立ち止まるんだ。あの回の太一を思い出して、それから外へ出る。
ゲン担ぎか。
そんなとこだな。家の人たちには、毎回なにを拝んでるのかって笑われるぜ。
ギアドラが「今朝は四分止まっていました」と付け足すと、タモツは「数えるなよ」と小声で言った。
遊歩道の街灯の下で、ジョギングの人が二人を追い越していった。タモツは自販機で温かいお茶を二本買って、一本をジンに放った。ジンは片手で受け取って、ギターケースを肩からおろした。
ここからは、終わりのほうの話だ。太一が、いちばんかっこ悪くなる回がある。
中段为止終盤の展開(その一)点击展开
タモツ「旅の途中で、妹のヒカリが体調を崩すんだ。太一は光子郎と一緒に薬を探して走り回るんだけど、もう落ち着いてなんかいられない。取り乱して、いつもの太一じゃなくなる」
タモツ「勇気の紋章を持ってる子がだぜ。身内のことになったとたん、全部崩れる。オレは、そこで太一を本当に好きになった。強いからじゃなくて、崩れるところまで見せてくれたから」
ジン「身内が絡むと、拍が走る。一人で突っこむドラムみたいになる。……分からなくはねえ」
タモツ「だろ。リーダーって、崩れない人のことじゃないんだよな。崩れたあと、どう戻ってくるかの人なんだ」[1]
お前にも、そういう日はあんのか。
あるぜ。山ほどある。でもそれは、また別の夜に話す。今夜は太一の夜だからな。
……そうか。なら、続けろ。
で、戻ってくるのか。
戻ってくる。そのためには、もう一人の話をしないとだめだ。
中段为止終盤の展開(その二)点击展开
タモツ「ヤマトとは、最初からしょっちゅうぶつかってる。ヤマトから見ると、太一は無茶ばっかりするんだ」
タモツ「終わりのほうで、ヤマトは太一に勝負を挑んで、一度、仲間のもとを離れていく。でも最後には戻ってきて、二人は仲直りするんだぜ」
タモツ「オレが好きなのは、太一がヤマトを言い負かして連れ戻すんじゃないところだ。オレには、太一がヤマトの席をずっと空けといたように見える。これはオレの読みだけどな」
タモツ「旅先で、言葉の通じない子とけんかみたいになって、その子がぷいっといなくなったことがある。オレは次の日も同じ場所でデッキを広げて待った。来なかったけどな。でも、待ってる時間はちっとも損じゃなかった。たぶん太一から習ったんだ」
ジン「俺なら追いかけて、首根っこつかんで連れて帰る」
タモツ「ジンはそうだろうな」
ジン「……でも、待つほうがきついのは知ってる。待ってる奴の顔は、ステージからだとよく見えるんだ」[1]
いいじゃねえか。……そういう話か。
それ、オレが言いたかったやつだぜ! ……最後に、もう一個だけ畳む。
结局·真相終盤の山場点击展开
タモツ「ダークマスターズとの戦いのころには、アグモンはウォーグレイモンになってて、強い敵を倒していく。メタルシードラモンも、ムゲンドラモンも」
タモツ「でもオレの胸に残ってるのは、そこまでに太一が、仲間の気持ちを見られるリーダーに育ってたことのほうなんだ。一番前を走るだけだった子が、走りながら、後ろを振り返るようになってる」
タモツ「進化の名前は、どんどん大きくて強そうになっていく。でも太一の声は、最初のころより落ち着いて聞こえるんだ。前に向かって叫ぶ声から、横にいる仲間に向ける声になってる。これはオレの耳の話だけどな」
ジン「声が静かになるのは、場が見えてきた証拠だ。ステージでも、慣れた奴ほどしゃべらねえ」
タモツ「最後の回のことは、オレはまだ人前でうまく話せない。だから話さない。あそこは、それぞれが自分で観て、自分の胸にしまっとく場所だと思ってる」
ジン「……それでいい。あの回は、しゃべると音が薄くなる」[1]
結局、お前の推しは、勇気のある子なのか。
勇気を覚えていった子、だな。最初から持ってたんじゃなくて、一話ずつ、少しずつ自分のものにしていった。だからオレみたいなのでも、追いかけられたんだぜ。
……悪い、しゃべりすぎた。早口だったろ。
曲一本ぶんくらいだ。気にすんな。
今度、オレの家の大きい画面で一緒に観ないか。太一が家に戻る回だけでいい。あれは、だれかと並んで観たい回なんだ。
お前の家、海の向こうだろ。……ツアーが空いたら、偵察に行く。
偵察でも何でもいいぜ! 部屋はいくらでもある。いちばん座り心地のいいソファは、ギアドラに見張らせて空けとく。
駅の明かりが近づいてきた。ギアドラが「改札まで三分です。タモツの声は、もうほとんど残っていません」と告げた。タモツはかすれた声で笑って、お茶の缶をカバンにしまった。
来月もカラオケ行こうぜ。次は、オレ二曲目から立つ。一曲目は座って、ちゃんと声を残す。
無理だろ。お前はイントロで立つ。……立ったら、俺も一曲だけ付き合ってやる。
改札の前で、ジンはギターケースを背負いなおした。タモツが手を挙げると、ジンは一瞬だけ迷ってから、同じ高さまで手を挙げた。ギアドラが二人の手のあいだを一回くぐって、タモツの肩に戻った。