漁から戻ったゲンが風呂から上がると、居間の畳の上に子どもたちが散らばっていた。めいめいが、ゲンの本棚から抜いてきた漫画を一冊ずつ抱えている。縁側では白い猫が一匹、夕日を背中に乗せて丸くなっていた。スイが仕事の日は、いつのまにかここにいる猫だ。
娘の一人の手には、銀の匙 Silver Spoon の途中の巻があった。台所から魚を焼く匂いがしてくる。シズカの包丁は、一定の速さで音を刻み続けている。
おっ、銀の匙か! いいじゃん、それ! どこまで読んだ?
「豚丼が大きくなってきたとこ」と、娘の一人が顔も上げずに答えた。
そこか! 八軒がよ、割り切れねえまんま、あの子豚に「豚丼」って名前つけて可愛がるだろ。[1]
あいつがな、最後は夏休みのバイト代をはたいて、肉になった豚丼を自分で買い取るんだよ! そんで残った肉はベーコンにして、世話になったとこに配って回るんだ……! 泣けるじゃねぇか……![1]
居間が静まり返った。次の瞬間、子どもたちが一斉に叫んだ。「言うなー!」
包丁の音が止まった。
……ゲンさん。
ゲンが正座した。子どもたちも、なぜか正座した。縁側の白い猫まで、背筋を伸ばして座り直した。
読んでいる人の前で、先のことは言わない。この家の約束でしたね。
……はい。
ここから先は、もう誰も言いません。いいですね。
はい。
シズカはにっこり笑って台所へ戻った。包丁の音が、さっきと同じ速さで再開した。
ゲンはそろそろと縁側へ逃げた。白い猫の隣にあぐらをかき、声を落とす。
……やっちまった。
いまのは悪手にゃ。泣いた場面を先に言うのは、ゲンの悪いくせにゃ。
分かってんだよ。分かってても、口が先に出ちまうんだ。
でも、あの子豚の話は、テンも好きにゃ。名前をつけたものと、ちゃんと向き合う話にゃ。
俺はよ、船の上じゃ、自分の獲った魚が誰の皿に乗るのか、考えたこともなかったんだ。陸に上がって、子どもらとあれ読んで、初めて考えた。食いもんの向こうには、毎日それを育てたり獲ったりしてる奴がいるってな。
だから、一番いいところを、先に言いたくなるにゃ。
だろ? ……だろ?
二回言わなくていいにゃ。
「父ちゃんが猫としゃべってる」と、いちばん下の子が縁側をのぞきこんだ。
猫に謝ってたんだよ。
にゃ。
猫は、それ以上ひとことも話さなかった。
かわりに猫は、畳に放り出してあった娘の毛布に、まっすぐ顔をうずめた。そのまま動かなくなった。
テンちゃん、それ私の毛布!
もふもふには勝てねえんだよな、そいつ。
にゃ。
ネタバレの件で、子どもたちはまだ口々に父親を責めていた。シズカが大皿を二枚、食卓の真ん中に置いた。
さあ、まずは、ごはんにしましょう。続きのお話は、食べながら。
「いただきます」が七つ、少しずつずれて重なった。ゲンの声だけ、まだ少し小さかった。
夕飯は、焼き魚と、具の多い味噌汁と、山盛りのごはん。炊飯器は、今日はもう二回目の炊飯に入っている。食卓の話題は、すぐに次のアニメへ移った。上の息子が、今夜はダンジョン飯を観たいと言い出したのだ。
魔物を料理して食うやつな! あれはいいぞ。昔話の化け物みてえなのを、ほんとにある料理のやり方で、その場で料理するんだ。[2]
あのアニメは、手が止まってしまうのよね。洗濯物を畳みながら観ているのに、お料理の場面になると、どうしても画面を見てしまって。
シズカ、あれ観ながら「この火加減は正しい」って言ってたもんな。
言いましたか?
三回言ってた。
……センシさんとは、お話が合いそうなんです。迷宮の中でも、食事と体のことをちゃんと考えて、偏ったものばかり食べるのはいけないって言う方ですから。[2]
「母ちゃんもダンジョン行けるんじゃね」と息子が言い、娘たちが笑った。
行きませんよ。でも、もし誰かが行くなら、お弁当は持たせます。
そこは行くんじゃねぇのか。
おなかがすいていると、人は意地悪になりますからね。迷宮でも、きっと同じです。
焼き魚の骨を外すのは、今日もシズカのほうが速い。ゲンが一匹目の背骨に箸を入れたとき、シズカはもう三匹目の身を、いちばん下の子の茶碗に乗せていた。
父ちゃん、漁師なのに、母ちゃんより遅い。
獲るのが仕事で、ほぐすのは仕事じゃねえんだよ。
ゲンさんが獲ってきてくださるから、ほぐせるんですよ。
……っ、鼻がツンとしてきやがった。
今日それ二回目。
父ちゃん、船の上では何観てたの?
ビデオとDVDを何十本も積んでな。となりのトトロを観ると、陸に置いてきた家を思い出してよ。夜の甲板で、一人でこっそり泣いてた。
そのころ、こちらは子どもが一人ずつ増えていましたね。
……(目頭を押さえて、天井を見る)
三回目。
シズカは魚の皮と身の切れ端を小皿に取り分け、縁側の猫の前に置いた。猫は一度だけシズカの顔を見上げてから、前足をきちんとそろえて食べはじめた。
テンちゃんは、食べ方がきれいね。どこかで躾けられたみたい。
にゃ。
父ちゃんより行儀いい。
うるせえ。
ねえ、父ちゃんと母ちゃんって、どこで会ったの?
港だよ。母ちゃんが道に迷っててな、地図をこう、逆さに持って……
迷ってはいません。少しだけ、地図の向きを確かめていただけです。
逆さだったじゃねえか。
……確かめている途中だったんです。
町ではしばらく「ゲンがどこかのお嬢さんをさらってきたらしい」という冗談が回っていた、という話は、子どもたちも近所のおばあさんから何度も聞かされている。今日は誰も口にしなかった。母の目が、ほんの少しだけ静かだったので。
食後、テレビでは日曜の夕方らしい、家族の出てくるアニメが流れていた。シズカがふと、湯呑みを置いた。
私の家は、しつけの厳しい家でしたけど、日曜の夕方だけは、みんなでテレビの前で笑ってよかったんです。
子どもたちが箸を止めた。母が実家の話をするのは、めずらしい。
祖母も、その時間だけは、背筋をほんの少しだけゆるめていました。家族の何でもない会話がいちばんおもしろいって、あの時間に教わった気がします。
いいじゃん、それ……!
ゲンさん、まだ泣くところではありませんよ。
泣いてねぇよ。……いや、泣ける話だろ、いまの。
八時すぎ、さっきの娘が居間の隅で、銀の匙の続きを読み終えた。ページを閉じて、しばらく黙っていた。
「知ってたのに、泣いた」と、娘は言った。
な? 知ってても泣けるだろ?
……ゲンさん。
はい。
知っていても泣けることと、先に言っていいことは、別です。
……はい。
でもね、父ちゃんが言ったとこじゃないとこで泣いた。
どこだよ。
言わない。父ちゃんがもう一回読んで、自分で見つけて。
……くそ、また目がしょっぱくなってきた。
四回目。
娘は少し笑って、次の巻に手を伸ばした。次の巻については、ゲンはもう何も言わなかった。言いたそうな顔だけをして、口を一文字に結んでいた。
夜。山盛りの洗濯物を前に、シズカは白い猫を膝に乗せて、ブラシをかけていた。テレビの中では、迷宮の奥で誰かが鍋をかき回している。
あらあら、テンちゃん。今日は毛がふわふわね。
にゃ。
うちの人が、ごめんなさいね。うるさかったでしょう。
にゃ。
シズカの手が止まった。いつのまにか、洗濯物を一枚握ったまま眠っている。猫はその膝から静かに降りて、子どもたちが寝たあとの台所で、一人皿を洗いながら鼻をすすっているゲンのほうへ歩いていった。
この家でいちばん強いのは、やっぱりシズカにゃ。
……知ってるよ。
神のご加護にゃ……。