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今回の問いは「ピカソ、エジソン、手塚治虫は、いっぱい作るという戦略で成功したの?」。歴史と組織から考えるタカシと、絵と服と制作の舞台裏を見てきたルカーノが、シオルの素朴な質問に答えながら話しました。まず三人の数字を確かめ、次に量と質の関係、量を回した仕組み、作るのを止められない性分、最後にたくさん作らなかった人たちの側から見直します。
三人はどれだけ作ったのか
ピカソさん、エジソンさん、手塚治虫さん。三人とも、ものすごくたくさん作った人だと聞きました。たくさん作ったから、うまくいったんですか?
いい問いです。……答える前に、まず数を確かめさせてください。量の話は、数を間違えると全部ずれてしまうので。
じゃあ僕から、画家の数を。シオル、今日も耳のはね方が完璧だね。
ギネス世界記録は、スペインのパブロ・ピカソ(1881〜1973年)を、75年におよぶ画業で最も多作なプロの画家としています。推計では、絵画とデザインが約1万3500点、版画が10万点、本の挿絵が3万4000点、彫刻と陶器が300点です。Fact[1]
絵画だけで、一日一点描いても37年かかる数だよ。版画まで入れたら、もう計算する気にもならない。Bellissimo! ……と言いたいところだけど、僕は数より、その手が毎朝なにを考えていたかのほうが気になるんだ。Grounded inference
それと、数の言い方にも気をつけたい。日本語の百科事典では、同じ1万3500点を「油絵と素描」と書いている。英語の designs をどう訳すかで、絵の数の印象がずいぶん変わるんだ。Fact[2]
エジソンについては、ラトガース大学のトーマス・A・エジソン文書プロジェクトが、エジソンは重要な発明から小さな改良まで、幅広い分野で記録的な1093件の特許を得たと書いています。Fact[5]
手塚治虫は、講談社の子ども向け人物伝の紹介文によると、17歳で4コマの新聞漫画「マアチャンの日記帳」でデビューしてから60歳で亡くなるまでの43年間に、約15万枚の原稿を描いたといわれ、漫画の作品タイトル数はおよそ700余りです。Fact[10]
英語の資料では、手塚治虫の作品は「700巻以上、15万ページ以上」と、巻で数えています。タイトルで数えるか、巻で数えるかで、同じ700でも中身が違う。三人とも、数字は資料によって数え方が違うものだと思っておいたほうがよさそうです。Fact[11]
シオル、いまの数字はぜんぶ覚えました。一万三千五百、十万、千九十三、十五万……。でも、数を覚えても、三人がなぜうまくいったのかは、まだ分かりません。
たくさん作っても当たる割合は同じ
そこで、創造性の研究を一つ持ってきました。歴史の資料から、作り手の生涯の仕事を数えてきた研究です。
創造性を研究したディーン・キース・サイモントンは1997年、「等確率の法則(equal-odds rule)」と呼ばれる考え方をまとめました。ある期間に生まれたヒット(創造的な成功)の数と、作った作品の総数との関係は、正の向きで、直線的で、確率的で、安定している、というものです。Fact[16]
別の論文は、これを「成功したアイデアの数は、生み出したアイデアの数に比例する」と言い換えています。ただし同じ論文は、すべての研究がこの法則を支持しているわけではない、とも書いています。Fact[15]
つまり、名人になったからといって、当たる率が上がるわけじゃない、ってこと? 僕は少しほっとしたよ。美大のころ、上手い人ほど外さないんだと思い込んでいたから。Interpretation
私もそう読みました。打率は上がらない。打席の数が増える。だからヒットも増えるし、凡打も同じだけ増える。多作な人の作品の山には、当たりと同じくらい、そうでないものも積まれているはずです。Interpretation
ふるさとの星読みも、たくさん読む人ほど、当たった話も外れた話もたくさん持っています。そういうことですか?
近いです。違うのは、星読みは同じ空を何度も読み直せますが、作り手は毎回ちがうものを出さないといけないところでしょうか。ですから「いっぱい作る」は、同じものを百回ではなく、ちがうものを百回、という意味になります。Interpretation
そこが、ピカソの話につながるね。
ピカソは描くたびに壊した
ピカソは、作風がめまぐるしく変わった画家として知られていて、時期ごとに「青の時代」のような名前がついている。1907年には、キュビスムの始まりになった『アビニヨンの娘たち』が生まれた。Fact[2]
あの一枚のために、ピカソは何百ものスケッチと習作を描いたといわれているんだ。Fact[4]
僕は、ここがいちばん好きでね。完成した一枚の後ろに、何百枚もの「まだ違う」がある。量って、その「まだ違う」の数なんだと思う。仕立ても同じなんだ。型紙は一回で決まったことがない。仮縫いして、ほどいて、また縫う。お客さんが目にするのは、最後の一着だけ。Interpretation
温故知新アトラスという歴史の整理帳に、「様式を捨て続けられる者だけが、長期の影響力を保つ」という法則があります。代表例の一人がピカソです。巨匠とは完成形にたどり着いた人ではなく、たどり着いたものを自分で壊し続けた人だ、という考え方です。Interpretation
ただ、この法則には但し書きがあります。「壊し続けた」という評価は、あとから作られた物語であることが多い。成功した人を後ろから眺めると、変化がぜんぶ意図に見えてしまう。生き残った人だけを数える偏りに気をつけなさい、と。Interpretation
タカシさんの言うとおりだと思う。さすが、物差しの使い方が誠実だ。描いている本人は、たぶん「壊そう」なんて思っていない。前の絵ではもう言えないことができた。それだけなんじゃないかな。Interpretation
ふるさとの写本師は、一冊を写し終えると、同じ本をもう一度、同じように写します。ピカソさんは、写し終えたら次は違う本を書いてしまう人……ですか?
いいたとえだね、シオル。ただ、ピカソは前の本を捨てたわけじゃないと僕は思う。前の本で覚えた線を、次の本の挿絵に連れていく。壊しても、手は覚えているんだ。Interpretation
エジソンは発明を工場にした
エジソンについて、ラトガース大学の資料は、特許の数よりもっと大事なこととして、彼が近代の産業研究の手本をつくったことを挙げています。Fact[5]
アメリカ国立公園局の伝記によると、エジソンは1876年、ニューヨークの南西にある小さな村メンロパークに家族と助手たちを連れて移り、どんな発明にも取りかかれる設備をそろえた施設をつくりました。こうした研究開発の研究所はそれまでどこにもなく、のちのベル研究所のような施設の手本になった、と書かれています。Fact[9]
ここに有名な目標があります。ラトガース大学の詳しい伝記では、29歳のエジソンは「10日ごとに小さな発明を、半年ごとくらいに大きなものを」生み出すつもりだった、とあります。Fact[6]
でも、同じラトガース大学の別の文章では「6週間ごとに小さな発明を、半年ごとに大きな発明を」と誓った、になっているんだよ。Fact[7]
そうなんです。同じ研究機関の文章でも、10日と6週間で違う。独り歩きしやすい言葉なので、ここは「資料により異なる」としか言えません。ただ、どちらにしても、発明を予定表に載せた、という点は変わらない。私はそこに目が行きます。Interpretation
研究所の人数も増えていきました。同じ文章によると、資金が入ったことで、1878年の春までに職員は最初の小さな集団から25人に増えました。Fact[7]
ラトガース大学の伝記は、電灯と電力の仕事について、ガス灯に代わる電球を探すことから始まり、最後には大きな資金、いくつもの研究チーム、広げた研究所と工房、大規模な工場、そして販売の組織が必要になった、と書いています。Fact[6]
国立公園局の伝記も、エジソンの成果は白熱電球だけでなく、それを実用的で安全で経済的にするための要素をすべて備えた電灯のシステムだった、としています。Fact[9]
電球一個ではなく、研究から工場から売り方まで。私はここで、エジソンの「量」の正体が少し見えた気がします。一人で千回試したのではなく、千回試せる場所と人を先に集めた。Interpretation
鍛冶屋の親方が、弟子をたくさん抱えた工房みたいなものですか?
近いです。ただ、鍛冶屋の工房は親方の技を弟子が覚える場所ですよね。メンロパークは、まだ誰も知らない答えを、みんなで手分けして探す場所でした。教える工房と、探す工房の違いでしょうか。Interpretation
探す工房なら、外れもたくさん出るよね。ラトガース大学の伝記には、ほぼ一世紀使われたという電話の送話器を、エジソンが前の失敗をうまく生かした、お手本のような例だと書いている箇所もあるんだ。Fact[6]
アトラスに「安全に失敗できる環境と、失敗を罰さない資金が、習熟と探索の速度を決める」という法則があります。たくさん作るには、たくさん外しても潰れない場所がいる。量は根性の問題である前に、失敗の置き場所の問題なのだと思います。Interpretation
もう一つ、耳の痛い記述があります。英語の百科事典の項目には、研究所の長として、エジソンは主に部下たちが作った発明でも功績を認められた、とあります。年を取ってからは、天才と呼ばれるのを嫌がり、「1パーセントのひらめきと99パーセントの汗」を強調した、とも。Fact[8]
アトラスには「功績は真に到達した者ではなく、語り、制度に認められた者へ帰属する」という法則もあります。1093件という数字の中には、名前の残らなかった人たちの手が入っている。私も会社を率いているので、ここは自分のこととして聞こえます。表に出るのは、いつも私の名前ですから。Interpretation
手塚治虫と毎週のアトム
手塚治虫さんは、一人で十五万枚を描いたんですか? 写本師ギルドでも、一人でそんなには写せません。
横山光輝さん……。私が中学のころに読んだ『三国志』の。そうでしたか。量の現場は、次の作り手が育つ場所でもあったわけですね。Preference
手塚治虫は1961年、自分のプロダクションに動画部をつくり、1962年に「虫プロダクション」と改名しました。そして日本で初めての30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』に取りかかります。当初10人にも満たないスタッフで、毎週ディズニーのような枚数の絵を描くことは不可能でした。そこで、毎週の放送のために絵の枚数を大きく減らすリミテッドアニメの手法を、さまざまに工夫して編み出しました。Fact[12]
でしょう。ここで僕は職人の顔になっちゃうんだけど、枚数を減らすのは、手を抜くこととは違うんだ。止める絵と動かす絵を選ぶ。止めても気持ちが伝わる一枚を決める。毎週届けるために、描かないところを設計した。これは立派な発明だと僕は思う。Interpretation
ただ、値段の話もしなければいけません。
日本語の百科事典によれば、手塚治虫は『鉄腕アトム』を1本55万円という破格の制作費で売り込み、これが制作部の首を絞めることになりました。手塚自身、のちに「大失敗だった」と認めたとされます。『アトム』の成功を見てほかの会社も次々とこの分野に参入し、低予算で多くの番組が作られ、放映されることになった、とも書かれています。Fact[12]
同じ項目には、リミテッドアニメの手法を使っても、30分枠1本に最低でも2000枚分の動画が要り、それを動画家5人で担当して一人が1日66枚を仕上げるという、苛酷な労働状況が生まれたとも書かれています。Fact[12]
ただし、55万円という金額には異論があります。関係者への聞き取りと資料の再調査をした津堅信之さんは、当初は1本155万円が代理店から制作費として支払われていた、としています。金額は資料により異なります。Fact[12]
1日66枚……。僕はその数字を見ると、手首が痛くなる。Preference
アトラスに「ある変数を最適化すると、必ず別の変数へ負債が移る」という法則があります。毎週放送できる、という変数を最適化した。その負債が、どこへ移ったのか。少なくとも百科事典の書き方からは、作り手の働き方と制作費のほうへ、と読めます。……ただ、私はこの話を、最初に道を作った人を責めるためにはしたくありません。道を拓いた人が、その道の傷みまで全部見通すのは難しいことです。Interpretation
一方で虫プロダクションは、最盛期には400人を超える社員を抱えていたといわれます。監督では出崎統、高橋良輔、富野由悠季、アニメーターでは安彦良和らが育ち、のちの日本のアニメ業界を支える人材を数多く送り出しました。Fact[12]
私の原点の一本も、あの量の現場から続く道の先にあったわけです。……また歴史の話にしてしまいましたね。Preference
いいんだよ、今日は歴史の話をする日だ。量の記録でいえば、もう一人いるね。
日本語の百科事典によると、角川書店の『石ノ森萬画大全集』全500冊は、手塚治虫の『講談社手塚全集』全400巻の記録を更新し、石ノ森章太郎はギネス・ワールド・レコーズに「世界一多作な漫画家」として認められました。認定の年は、同じ項目の中でも2007年末と2008年の書き方があります。Fact[14]
ギネスの記録ページでは、一人の著者による最も多い漫画の出版として、770タイトル(500巻に収録)と載っているよ。Fact[13]
いまのテレビアニメでも、毎週新しい回が届くのは当たり前になっている。その当たり前の土台に、あのころの工夫と無理が両方入っている。僕はそう見ているよ。Interpretation
作るのを止められない人たち
ここまで仕組みの話をしてきましたが、私は三人を「戦略家」と呼ぶのに、少しためらいがあります。Interpretation
手塚治虫は亡くなる前の病床でも、医者や妻の制止を振り切って漫画の連載を続けていたと伝えられます。昏睡から覚めると「鉛筆をくれ」と言い、死の間際にも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとした、と日本語の百科事典は書いています。Fact[12]
ピカソもね。亡くなったとき、手元に売られていない作品が4万5000点以上残っていたという。絵が1885点、彫刻が1228点、陶器が3222点、素描が7089点、それにスケッチブックが150冊。Fact[3]
売るためだけに描いていたら、こんなには残らない。描かずにいられなかったんだと思う。……僕のアトリエの奥にも、一枚だけしまってある絵があるんだ。数にもならない一枚だけどね。……ま、それでもいいさ。Interpretation
戦略というのは、やめる時期も含めて選ぶことです。でも三人とも、やめる時期を選んだようには見えない。量は戦略の結果というより、性分の結果に近い。戦略と呼べるのは、むしろその性分を回し続けるための仕組みのほうだと、私は思います。Interpretation
止められないのは、ふるさとでは呪いの話になることが多いです。踊り続ける靴とか……。でも、三人は呪われていたわけじゃないんですよね?
呪いじゃないよ。でも、祝福だけでもない。好きなことを止められないのは、周りの人の時間も一緒に使うことだから。Interpretation
……その言葉は、私にはよく効きます。仕事を止められずに、大事な約束を後回しにしたことがあるので。Preference
たくさん作らなかった人たち
最後に、反対側も見ておきたいです。多作な人ばかりを並べると、多作が正解に見えてしまいますから。
画家ならフェルメールだね。現存する作品は研究者によって数え方が違うけれど、32点から37点。年に2、3作という寡作でもやっていけたのは、生涯でいちばん大きなパトロンが支え続けてくれたからだと考えられている。そのパトロンは、作品を20点持っていた。Fact[17]
でも18世紀に入ると、フェルメールの名前は急速に忘れられていった。理由の一つに、あまりに寡作だったことが挙げられている。19世紀になって、もう一度高い評価と人気を得るんだ。Fact[17]
僕がフェルメールの話で好きなのは、パトロンのところ。年に2、3作でよかったのは、待ってくれる人がいたからだ。少なく作るのにも、仕組みがいるんだよ。Interpretation
作家では、J・D・サリンジャー。1965年6月に雑誌『ニューヨーカー』に載せた『ハプワース16、一九二四』を最後に作品の発表をやめ、作家業から事実上身を引きました。Fact[18]
少なく作って名前が残った人もいるし、少なく作って一度は忘れられた人もいる。そして、たくさん作って埋もれた人は、そもそも私たちの目に入りません。名前が残らなかったので、こういう話にも呼ばれない。生き残った人だけを並べて法則を作るのは、歴史好きがいちばん気をつけなければいけない癖です。Interpretation
では量で勝ったのか
では、三人は「いっぱい作る」作戦で勝ったんですか、勝っていないんですか?
半分は、そうです。等確率の法則のとおり、作る数が多ければ当たる数も増える。でも残りの半分は、数そのものではありません。エジソンなら、試す人と場所と資金を先に集めたこと。手塚治虫なら、毎週出すために描かないところを設計した技術と、人が育つ現場。ピカソなら、前の自分を壊して次の一枚へ移ること。私は「いっぱい作る」を、「試す回数」と「それを回す仕組み」と言い直したいです。Interpretation
僕は少しだけ違う意見だな。仕組みも大事だけど、僕は「壊して作り直す勇気」をいちばん上に置きたい。同じものを百枚描いても、百回試したことにはならないからね。Interpretation
なるほど。私は組織の人間なので仕組みに目が行く。ルカーノさんは手の人なので、一枚ごとの変化に目が行く。今回は、そこは揃えずにおきましょうか。Interpretation
賛成。それと、仕組みの側には、1日66枚の手首もあったことを忘れずにね。Interpretation
自分の仕事や創作に当てはめるなら……。数を増やす前に、外しても大丈夫な場所があるか。前のやり方を一度壊してみたか。そして、その量を誰が払っているか。この三つを確かめてから増やしても、遅くはないと思います。Interpretation
シオル、今日の数字はぜんぶ覚えて帰ります。でも、いちばん覚えておきたいのは、数字の後ろにあった「まだ違う」の山のことです。
たくさん作った人は、当たりと同じだけ外れも作っていた。量を力に変えたのは、試す回数と、それを回す仕組みと、前の自分を壊す勇気。数を増やす前に、外れの置き場所を作っておこう。