平日の午前、開店前のルカーノの店。夜勤明けの新幹線を降りたチアキは、昼の公演までの時間に、小さなキャリーを引いて寄りました。鞄から出てきたのは、角のすり切れた文庫本が一冊。病棟の休憩室の本棚に、誰かが置いていったものだそうです。作業台で衣装の裾を直していたルカーノは、針を置いて顔を上げました。
おはよう、チアキさん。そのハンカチの色、朝の光にいちばん映える選び方だね。おや、その表紙。懐かしい顔がいる。
ありがとうございます。休憩室の棚にあった『ガラスの仮面』です。夜勤の休憩のたびに、一冊ずつ読んできました。演劇の漫画なのに、私、ずっと客席の側の話として読んでいて。Preference
平凡な少女と伝説の主役
『ガラスの仮面』は美内すずえの漫画です。1976年に少女漫画誌『花とゆめ』で連載が始まりました。主人公は13歳の北島マヤ。一見どこにでもいる少女ですが、演じることにかけては底の知れない才能を持っています。ライバルは、父が映画監督、母が大女優という家に生まれた姫川亜弓。二人が目指すのは、伝説の舞台『紅天女』の主役です。Fact[1]
僕はモデルを始めたばかりのころに読んだんだ。カメラの前でどう立てばいいか分からなかった時期でね。マヤが役をつかむたびに、こっちの背筋まで伸びた。Preference
休憩は長くても一時間なので、一冊を読み切れない夜もありました。止めるところが毎回、いちばん続きが気になる場面で。アラームが鳴ると、栞をはさんで病棟に戻る。その繰り返しでした。Preference
千の仮面と舞台あらし
マヤを見いだすのは月影千草。かつて『紅天女』で主役を演じた大女優で、舞台の事故がもとで役者の道を退きました。『紅天女』を上演する権利は月影が握っていて、主役にふさわしい女優がいなければ、誰にも渡そうとしません。その月影が、マヤを「千の仮面を持つ少女」と呼びます。Fact[1]
マヤには、もう一つの呼び名があります。「舞台あらし」。同じ舞台に立つほかの役者がかすんでしまうほどの、すさまじい存在感のことです。Fact[2]
舞台あらし。客席にいると、それ、分かる気がします。真ん中にいない人のほうを、気づいたら目で追っている日がある。Observation from the work
衣装を作る側から言うと、困った才能だよ。主役のために計算した色と線を、別の一人が全部持っていってしまうんだから。でも、だから舞台は生き物なんだろうね。Interpretation
千の仮面、という呼び方も好きです。一つの顔を磨くんじゃなくて、何度でも別の人になれる。同じ役者さんが、次の公演でまるで違う人の歩き方をして出てくると、少しこわいくらいなんです。Interpretation
作中でマヤや亜弓が演じる劇には、『若草物語』や『王子とこじき』のように、実在の物語を舞台にしたものも混じっています。Fact[1]
本当にある物語と、漫画の中にしかない物語が、同じ板の上に並んでいる。だから最後に待っている架空の一本まで、本物らしい重さで見えてくるのかもしれないね。Interpretation
名前のない花束
物語の始まりのころから、マヤのもとには、名前を明かさないファンから紫のバラが届きます。花束の主の顔を知らないまま、マヤはその人を「紫のバラのひと」と呼んで、苦しい日の励みにします。Fact[1]
ここを読んだ夜、休憩室で少し笑ってしまいました。私も手紙の最後に、いつも「返事はいりません」と書くので。名前は書きますけど。Preference
名前があってもなくても、受け取る手には同じ重さで届くものさ。花も手紙も、渡した人の手を離れたら、もう受け取った人の物語の中にある。Interpretation
誰からなのかは、まだ知りたくないです。続きを自分の目で読むまでは。Preference
紙の上の芝居が幕を開けた
『紅天女』は、作品の中にしかない架空の芝居です。ところがこの劇は、のちに現実の舞台になりました。まず能として上演され、2020年1月には、東京のBunkamuraオーチャードホールでオペラとしても幕を開けています。Fact[4]
紙の上にしかなかった舞台に、生身の人が立った。それを知った日、私、勤務表の裏に思わずメモをしていました。Preference
衣装を作った人のことを考えると、眠れなくなりそうだ。読者はみんな、自分だけの『紅天女』の姿を胸に持っている。その全員の前に、一着で出ていくんだから。服でいえば、何千人分の採寸表を、一枚の型紙にまとめるようなものだよ。Interpretation
客席の側も、きっと同じくらい緊張しています。思い描いていた姿と違ったらどうしよう、って。でも幕が開いて、役者さんが最初の一歩を出した瞬間に、そういう心配は全部どこかへ行ってしまう。そんな一歩を、私は何度も見てきました。Interpretation
いい話を聞いた。その一歩の話、今度は僕の衣装でも聞かせてほしいな。
開場まで、あと一時間半あります。続きの巻は、帰りの新幹線で読みます。今日の昼の部では、真ん中にいない人の歩き方も、ちゃんと見てきますね。
『ガラスの仮面』の中にしかない芝居だった『紅天女』は、のちに能になり、2020年にはオペラとして本物の幕を開けた。