冒険の話になると、ハルとゲンはいつも声が大きくなります。今日はハルが、少し声を落として聞きました。「ゲンさんにも、海が嫌になった時期ってあったの?」。返ってきたのは、遠洋の船に乗り始めたころの話でした。
新米は毎日怒鳴られる
ゲンさんって、生まれたときから海の男って感じがするけど。嫌になったこと、あるの?
あるある! 大ありだ。遠洋の船に乗ったばっかりの、二十歳になるかならないかのころだな。親父の船で海には慣れてるつもりだったんだ。ところが、遠洋は全然違った。
何が違ったの?
まず、陸が見えねぇ。何か月もだぞ。それに、新米は何をやっても怒鳴られる。ロープの結び方が遅い、道具の置き場所が違う、返事が小さい。朝から晩まで怒鳴られて、夜になったら船酔いで吐く。飯がうまいはずなのに、喉を通らねぇんだ。俺が飯を食えなかったなんて、今じゃ誰も信じないけどな。
ゲンさんがごはんを食べられないって、相当だよ。
だろ? 体重も目に見えて落ちた。寝床に入ると、天井が近くてな。あの狭い寝床で、毎晩、次の港で船を降りて帰ろうって考えてた。
家には、連絡できなかったの?
今みたいに、いつでも話せるわけじゃなかったからな。たまに届く手紙を、何回も読み返した。母ちゃんの字で「ちゃんと食べてるか」って書いてあるんだよ。食べてねぇよ、って手紙に向かって言ってた。返事には「元気だ、飯がうまい」って書いた。嘘だけどな。心配かけたくなかったんだ。
……ゲンさんらしいな。
時化の夜
それで、何かきっかけがあったの?
ある晩、海がひどく荒れた。時化(しけ)ってやつだ。船が持ち上がって、どすんと落ちる。寝床で体を突っ張ってないと転がり落ちる。夜中の二時ごろだったかな、怖いし、眠れねぇし、吐き気はするしで、俺は寝床の中で丸くなってた。正直、ちょっと泣いてた。
……それは、きついね。
そしたら、上の寝床から、ぽんって何か落ちてきたんだ。昼間に一番俺を怒鳴ってた先輩がな、懐中電灯と一緒に漫画を一冊、放ってよこした。「眠れねぇなら、それでも読んでろ」って。それが『こち亀』だった。表紙が取れかけて、ページが潮でふにゃふにゃになってるやつ。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』は秋本治さんの漫画で、集英社のジャンプコミックス第1巻は1977年7月9日に出ている。Fact[1]
揺れる寝床で笑った
嵐の夜に、ギャグ漫画。
最初は、こんなときに読めるかよって思った。でも、どうせ眠れねぇから、懐中電灯で照らして開いた。そしたらな、両さんが、またしょうもないことを思いついて突っ走るんだよ。周りの迷惑なんかおかまいなし。で、最後に盛大にやらかす。俺、揺れる寝床で、ぶはっと吹き出しちまった。
笑えたんだ。
笑えた。自分でもびっくりした。そしたら、上の寝床からも、くっくって笑い声がしたんだ。先輩も起きてて、たぶん別の巻を読んでた。怖いのは俺だけじゃなかったんだな、ってそのとき分かった。
両さんの何が効いたのか
作品のどこが、いちばん効いたんだと思う?
両さんって、しょっちゅう失敗して、しょっちゅう叱られてるだろ。上の人に怒鳴られて、こっぴどい目にあう。なのに、次の話になったら、けろっとして、またやらかす。落ち込んで部屋に閉じこもったりしないんだよ。Interpretation
叱られても、次の日はまた走り出す。
そう。それに、一話で話がちゃんと終わる。どんなにめちゃくちゃになっても、最後のページでいったん片がつく。荒れた海の上で、先のことなんか何も分からねぇ夜に、それがありがたかった。とりあえず今夜の一話は、ちゃんと終わる。じゃあ、次の一話まで読んでみるか、って思えたんだ。Interpretation
……一話ずつ、か。
それと、両さんはめちゃくちゃなのに、困ってるやつを放っておけない回がある。損得抜きで走っていく。それを読んで、昼間の先輩のことを考えた。あんなに怒鳴るのに、夜中に漫画を放ってよこす。ああ、この船にも両さんがいるんだって思った。Interpretation
食堂の棚
次の港で、船は降りなかったんだよね。
降りなかった。劇的に何かが変わったわけじゃねぇよ。次の日もちゃんと怒鳴られた。でも、夜に読む一冊があると思うと、昼間を乗り切れた。食堂の棚に、仲間が持ち込んだ漫画がずらっと並んでてな。俺はそこから一冊ずつ借りて、寝る前に一話だけ読むようになった。
棚には、どんな漫画があったの?
何でもあった。少年漫画も、釣りの漫画も……ここだけの話、一番読み込んだのは少女漫画の棚だ。誰が持ち込んだのか知らねぇけど、これがまた泣けるんだよ。いかつい男たちが、こっそり順番待ちしてた。
えっ、意外! でも、ちょっとわかる気がする。
逆に、誰かが心霊もののホラー映画を持ち込んだ夜は、俺は真っ先に食堂から逃げた。海の上で幽霊はやめてくれ。あれだけは今でもだめだ。
帰ってくるまでが冒険
ゲンさんが前に、僕に「帰ってくるまでが冒険だ」って言ったでしょう。あれ、もしかして、その頃の話から来てる?
かもな。冒険って、出ていくところばっかり話題になるだろ。でも本当にきついのは、途中の、先が見えねぇ夜なんだ。そこで踏ん張って、ちゃんと帰ってくる。そのためには、毎晩ちょっとだけ笑える何かが要る。俺にとっては、それが両さんだった。
あの先輩とは、そのあと?
何年か一緒に乗った。最後まで口は悪かったよ。でも、俺が後輩を持つようになったとき、気づいたら俺も同じことしてた。夜中に寝床で丸くなってる新米に、漫画を一冊放ってやるんだ。「眠れねぇなら、それでも読んでろ」ってな。
受け継がれてる……!
よせよ、泣けるじゃねぇか……!
いまの小さな習慣
今は近くの海で漁をしてるから、何か月も船に乗ることはない。それでも、仕事の鞄には一冊、一話完結の漫画を入れてる。読まない日のほうが多いけどな。あるって思うだけで、なんとなく落ち着くんだ。
もし今、毎日叱られてばかりで、帰りたいのに帰れない夜を過ごしてる人がいたら、長い物語じゃなくていい。一話で終わる、笑える話を一つ読んでみてくれ。今夜の一話がちゃんと終われば、明日の朝までは、たぶん持つ。
先が見えない夜は、一話で終わる笑い話を一つ。今夜がちゃんと終われば、次の一話も読んでみようと思える。