十月の土曜、昼。川沿いの公園の芝生広場に、赤と黒の衣装の道化が立っていた。白い手袋の指先で、細長い風船をきゅっきゅっとひねるたびに、並んだ子どもたちが息をのむ。ひとつ前の女の子は、黄色い風船の花を受け取って、母親の手を引きながら何度もふり返っていった。
列のうしろから三番目に、ルカーノとソウタがいた。ルカーノはサングラスを少し下げ、上の縁から道化の手もとを見ている。ソウタは叔父の上着の裾をつかんだまま、つま先立ちになっていた。
ねえ、おじさん。ピエロさんのふく、そでがおっきいね。
ルカーノはひざを折って、ソウタと目の高さをそろえた。
よく見てるね。袖ぐりが深くとってある。腕を大きく回しても、肩が引っぱられないようにしてあるんだ。ああいう服を着る人は、手をたくさん使う人だよ。
ぼくも、そで見る。ドレスも、そでで走れるかきまるから。
その見方、僕の工房に貼っておきたいくらいだ。
はい、お次のお客さま! 何色にいたしましょう。
あか。いぬがいい。
赤い犬、うけたまわりました! まばたきを三回するあいだに、できあがります。
ユウリが風船の口を結び、ひとつ、ふたつとひねっていく。鼻先、耳、首、前足。ソウタは本当にまばたきを数えていたが、二回目で目を開けたまま止まった。最後に、うしろの端をくるりと巻いて、小さなしっぽができた。
しっぽ、くるんってなってる。
しっぽは、いちばん最後のひとひねりです。ここを忘れると、犬がふり返って、こちらをじっと見るんですよ。
ありがとうございます。
ソウタが両手で受け取って頭を下げると、ルカーノはサングラスの奥で目を細めた。
このこ、ビンゴにする。
ビンゴはブルーイのいもうと。赤いいぬで、4さいなの。[2]
そう! おじさん、よくしってるね。
ソウタくんが、何度も説明してくれたからね。おかげで僕の頭の中には、毛の色の見本帳ができてる。
お恥ずかしいことに、僕はまだ『ブルーイ』を観たことがありません。ソウタさんは、どんな所が好きですか。
ふたりとも、いぬなのに、ちょっとぼくみたいなとこ。
ソウタさんに似た犬たち。それは観てみなくてはいけません。では、この赤いビンゴには、ソウタさんに似た、遊びの得意そうな顔をつけておきましょう。
ユウリは犬の鼻先を、指で少しだけ上に向けた。ソウタは「にこってなった」と小さな声で言って、ルカーノの顔を見上げた。ルカーノは黙ってうなずき、ポケットの手帳に、鼻先の角度を一本の線で描きとめた。
ねえ、青いのもできる? おねえちゃんのぶん。
もちろんです。青い風船なら、ここに一本、出番を待っております。
でも、ブルーイがおねえちゃんだから、ほんとはブルーイがさきなの。
おや。では、いまからでも順番を入れ替えましょうか。赤い犬には、少しのあいだ、うしろで待ってもらって。
いい。ビンゴがさきにできちゃったから、きょうはビンゴがさき。そういうルール。
できた順に、お姉さんと妹が決まる日。すてきな決まりです。
道化の声に、ほんの一瞬だけ、別の低い声がまじったように聞こえた。ユウリは咳払いをひとつして、青い風船をふくらませはじめた。
ねえ、道化さん。さっきの赤い子、最初に結んだのはどこ? 鼻からじゃなくて、首のあたりから組み立ててたよね。
……少し、順番を整理させてください。口を結んで、まず鼻先の分を残します。そのあと首を先に決めておくと、耳と前足をあとから足しても、全体がゆがみません。順番を一つ入れ替えるだけで、最後の一ひねりで足が三本になってしまうんです。
首から決める。服でいえば、衿ぐりを先に決めてから袖を付けるのと同じだ。そこがずれると、どんなにいい布でも肩が泣く。
いま、ピエロさんのこえ、かわった。
おっと! 風船を持つと、たまに中から別の人が出てくるのです。どうか、内緒にしておいてください。
いまの答え、礼儀じゃなくて仕事の顔で言うよ。いい手だ。あれは、一回や二回でできる手じゃない。
おそれいります! ……道化はほめられると照れて、風船を一本割ってしまう決まりなのですが、今日は我慢しておきます。
ソウタが、割れるのを待つように両手で耳をふさぎかけて、それから笑ってその手をおろした。
いま、ひねったの、かぞえてた。さっきとおなじかず。
数えてくださっていたのですか! ……ええ、同じ数です。犬はみんな、同じ数のひねりから生まれます。色がちがっても、それは変わりません。
じゃあ、ビンゴとブルーイ、きょうだいだね。
青い犬ができあがると、ソウタは赤い犬と青い犬を両手に一匹ずつ持ち、芝生の上で二匹の鼻先をちょんとくっつけた。それから少し考えて、二匹を見比べた。
青いほうが、ちょっとおっきい。おねえちゃんだから?
そう見えたのなら、きっとそうです。風船は、作った人より、もらった人の言うとおりになるので。
ブルーイにね、ふうせんラリーっていう回があるの。ふうせんを、ずっとぽんぽんってするの。[1]
風船の回か。道化さんの前で話すのに、ぴったりだ。
でも、ビンゴでぽんぽんしたら、われちゃうかも。
それは困ります。ビンゴとブルーイには休んでいてもらって、こちらで遊びましょう。
ユウリは腰の袋から、丸い黄色の風船を一つ取り出してふくらませた。ソウタは二匹の犬を、ルカーノの上着の上にそっと寝かせた。
それだったら、ルールきめる。おとした人は、つぎのふうせんをふくらませるかかり。
いいルールだ。落とした人にも、ちゃんと仕事がある。
三人で輪になって、黄色い風船を手のひらで打ち上げる。ソウタは真上に、ユウリは手首だけで、ルカーノはやけに真剣な顔で、上着の袖をまくってから打った。七回目で、風船はルカーノの指の先をすり抜け、芝生に落ちた。
あと、あたまでうってもいい。
頭は困るな。今朝、髪を整えるのに時間がかかったんだ。
では、頭を使ったら一点おまけ、ということにしましょう。使うかどうかは、それぞれの髪型と相談で。
ソウタはさっそく頭で一回打ち上げて、得意そうに鼻をこすった。ルカーノは最後まで、手のひらしか使わなかった。
おじさん、おとした。かかり!
了解。……ほら、ごらん。ふくらまない。僕の肺は、どうやら型紙を見る専門らしい。
風船は、吹く前に一度、指で伸ばしておくと楽になります。最初の一息が、いちばん重たいので。
ルカーノは言われたとおりに風船を伸ばし、頬をいっぱいにふくらませた。ようやく半分ほどの大きさになったところで、ソウタが手を叩いて笑った。ユウリもつられて、道化の顔のまま、平日にはめったに出ない声で笑った。
ちいさい。でも、まるい。
小さくても、丸ければ合格だそうだ。はは、それなら僕も合格だね。
そろそろお昼ごはんの時間だった。ルカーノが上着を拾い上げ、寝かせてあった二匹の犬をソウタに渡す。ソウタは赤いほうを右手に、青いほうを左手に持ちかえた。
ソウタが二匹を抱えて、芝生の端の水飲み場まで駆けていく。ルカーノはそのうしろ姿から目を離さないまま、声だけをユウリのほうへ向けた。
きみ、平日は何をしてる人? ……いや、やめておこう。いい手は、どこから来たかより、どこへ行くかのほうが大事だ。
ありがとうございます。平日の僕は、この手を、もっと静かな物に使っています。
静かな物か。じゃあ、その静かな手が今日みたいに跳ねる日を、また見に来るよ。
ソウタが水飲み場から戻ってきた。赤い犬のしっぽの先に、水の粒がひとつ光っていた。
ねえ、ピエロさんは、どこにすんでるの?
この公園の、土曜日の中です。雨の土曜日は、お休みをいただいています。
じゃあ、晴れた土曜にまた来よう。次は、裾の長いドレスの犬でも頼もうかな。
ドレスの犬は、まだ一度も作ったことがありません。それまでに、首から決める順番を考えておきます。
風船の犬は、何日かすると少しずつ小さくなります。小さくなったら、それはたくさん遊んでもらった印です。
じゃあ、ちいさくなっても、すてない。
こんども、ビンゴとブルーイ、つれてくる。ちいさくなってても、おこらないでね。