昼の部がはねたあとの、劇場の裏通りの喫茶店。窓ぎわの二人席で、チアキは文庫サイズの手帳を開き、さっき観たカーテンコールのことだけを短く書きつけていた。足もとの小さなキャリーの持ち手には、糸で縫った半券の形のしおりが結んである。
ドアのベルが鳴って、レイが入ってきた。肩に黒い衣装袋を掛けている。原宿の店長の工房で、型紙を見てもらった帰りだった。チアキは顔を上げると、レイの顔より先に、肩が上下する速さを見た。
レイさん。急いで来ました? 息、少し上がってます。
早歩きです。夜の部までの時間を、削りたくなかったので。
開場まで、まだ一時間あります。座ってください。お水、先にどうぞ。
レイは衣装袋を椅子の背に掛け、鞄から単行本を一冊出してテーブルに置いた。ページのあいだから、ケーブルを結んだ形のしおりがのぞいている。
ハイキュー。いちばん最後の巻ですね。
お誕生日の前に、最終巻。
毎年そうしてます。好物がサンマの塩焼きなので、その日の夜は魚を焼きます。[1]
好物まで合わせるんですね。私、ハイキューはアニメと舞台のDVDで追ってきたんです。漫画の最後までは、実はまだで。
知ってます。……最後まで話していいですか。黒尾の、高校のあとまで。
ネタバレ、ですね。はい、今日は聞きたい。大事なところは、畳みながらにしてもらえれば。
了解。畳みます。開けたくないところは、閉じたままで。
レイは単行本を閉じ、表紙の上に両手を置いた。チアキは手帳を脇に寄せ、ペンのキャップを閉めた。
入口から。黒尾は東京の音駒高校の三年生で、バレー部の主将。ポジションはミドルブロッカーで、背番号は1。[1]
頭のてっぺんが、とさかみたいな人。就職して三年目の春先に、舞台のDVDで初めて観たときも、あの髪ですぐ分かりました。[1]
ハイパープロジェクション演劇「ハイキュー!!」は2015年に初演。最初の公演のDVDは2016年3月発売
設定だと、あれは寝癖です。枕で頭を挟んで寝るから、ああなる。[1]
チアキが、ふっと息だけで笑った。
衣装を作る側から言うと、ウィッグでいちばん泣かされる形です。重力に逆らってるのに、寝癖と言われたら、こっちは何も言い返せない。
舞台だと、生身の人が毎回あの形を作って出てきますよね。紙の上の寝癖を、毎晩、手で作り直してる。そういうところで胸がいっぱいになってしまうんです。
レイさんが、最初に黒尾くんで手が止まったのは、どこでした?
試合より、主将どうしです。烏野の澤村と黒尾は、お互いを同じように見てる。どっちも、相手を油断のならない、したたかなやつだと見てる。[1]
ここから私の解釈。片方だけが警戒してたら、上と下ができる。両方が同じ物差しで相手を測ってるから、ネットをはさんでちょうど対称になる。高一の私は、その対称の線で読むのが止まりました。
対称。舞台なら、上手と下手に一人ずつ、同じ明るさで立たせる置き方だね。
そう。照明の当たり方が同じ。
プレーで言うと、黒尾はリードブロックを徹底してる人です。烏野のコーチが、身近な名手として名前を出すくらい。[1]
読んでから跳ぶ。先に決めつけない。人の見方も、たぶん同じです。
人の見方?
黒尾は、人に短い呼び名をつけるのがうまい。日向のことは、本人に自覚のないほめ上手。研磨のことは、チームの背骨と頭と心臓を一人で兼ねてる、って。梟谷のセッターのことは、落ち着いてるのに律儀で真面目なやつ。[1]
監視の設計に似てます。どの数字が、いくつになったら、誰を起こすか。名前の付け方が正確だと、夜中に呼ばれた人が迷わない。黒尾のつける名前は、そのまま使える。
あ、そこ。でも私は、少し違う読みです。
待って。聞かせてください。
病棟だと、人にラベルを貼るのがいちばん怖いんです。一度貼ると、みんながその人をラベル越しに見るようになるから。黒尾くんの名前は、ラベルじゃなくて呼び名に聞こえる。呼ばれた側が、ちょっと背筋を伸ばしたくなるほうの。
呼び名。……正しい。メモしていいですか。
どうぞ。一年のリエーフくんのことは、合宿メンバーの中でいちばん下手な二人のうちの一人、って言ってましたけど。[1]
あれは呼び名じゃなくて、現状の報告。直せる場所の。
ふふ。唇と頭の形でからかい合ってる、よその学校の二人に、食べ物に失礼だろうって突っこむのも黒尾くんでしたね。[1]
あれは、ただの正しい突っこみです。
作者は、中学と高校のバレー部でミドルブロッカーだったそうです。分かってるのはそこまで。黒尾がミドルブロッカーなのと関係があるかは、公式には書いてない。そこは分ける。[1]
分けてくれるの、ありがたいです。客席でも、聞いた話と自分の勘を混ぜて話す人がいて、つい、そっちに引っぱられがちなので。
音駒の三年は、ほかに夜久さんと海さん。黒尾と夜久さんは中学で顔を知った仲で、一年のころは事あるごとに張り合ってた。その二人のあいだを取り持ってたのが海さん。[1]
並び方で見ると、張り合う二人と、間に立つ一人の三角形。一か所が抜けたら止まる形じゃなくて、三点で支えてる。単一障害点がない。
三人の立ち位置、舞台だとカーテンコールで分かりますね。誰が真ん中に来て、誰が一歩引くか。
右の端。レイさんらしい席。
コート全体と、両方のベンチが一度に見える席なので。最後に黒尾がどこに立ってたか、確かめたかった。……泣いてて、確かめられなかった。
じゃあ、いつかもう一回、確かめないと。
ここから畳みます。一つ目。
Up to midway中盤の展開(第21巻〜第23巻のあたり)Tap to open
レイ「音駒は、東京の代表を決める試合で、まず梟谷とぶつかる。粘って拾い続けるけど、攻撃の破壊力の差で、一セットも取れずに負ける。残りの一枠をかけた三位決定戦の相手は、戸美。戸美の主将の大将とは昔からの知り合いで、顔を合わせるたびに小競り合いになる。黒尾は彼のことを、彼女にふられた傷はもう癒えたのか、なんて冷やかしてる」
レイ「その試合の途中で、音駒の守りの要のリベロ、夜久さんがけがで下がる。私がいちばん止まったのは、そこから。一年のリエーフが、チームが噛み合う瞬間を、初めて自分の体で知る。それは、黒尾が前から口にしていた言葉。最後はリエーフの攻撃の力で押し切って、音駒が勝つ。全国への切符を取る」
レイ「ここから私の解釈。黒尾は、言葉を先に置いておく主将。言った日には届かない。届くのは何試合かあと、相手の体の中で。手順書と同じ。書いた日には誰も読まない。読まれるのは、夜中に何かが止まったとき」
チアキ「……病棟の申し送りに、少し似てる気がします。次の勤務の人が困ったときに思い出せる場所に、一行だけ置いておく」
レイ「申し送り。それ、今日いちばんの言い換えかも」[1]
開けました。……夜勤の前に読まないほうがいい箱でした。
二つ目。
Up to midway中盤の展開(人物の背景その1)Tap to open
レイ「黒尾には、急ぐ理由があった。音駒の猫又監督は年が年で、いつまで現場に立てるか分からない。だから一日でも早く、烏野との公式戦を実現させたい。黒尾はそれを、烏野の澤村たちにも話してる」
レイ「猫又監督と、烏野の元監督の烏養さんは、宮城の中学で知り合ったライバルどうし。でも、猫又監督が中学最後の大会の直前に東京へ越してしまったから、二人は公式戦で一度も決着をつけられなかった。高校の全国大会で顔を合わせて、もう一度戦おうと誓ったのに、それもかなわない。烏と猫の対戦だから、ゴミ捨て場の決戦。二校の試合はそう呼ばれる」
レイ「つまり主将二人は、監督二人の、ずっと昔に終わらなかった試合を引き受けてる。自分たちの試合なのに、自分たちだけのものじゃない」
チアキ「いつまで、が分からない人の約束を、預かる側。病棟にいると、たまにあります。間に合わせたい、っていう気持ちは、頭より先に体が動きます」
レイ「黒尾がそれを、どんな顔で澤村に言ったかまでは、公式には書いてない。私は、笑いながら言ったと思う。手の内を見せない顔で」
チアキ「本気のことほど、軽く言う人」[1]
三つ目。
Up to midway中盤の展開(人物の背景その2)Tap to open
レイ「いまは軽そうに見えるけど、子どものころの黒尾は、かなりの人見知りだった。引っ越しがきっかけで、研磨と知り合う。親が家にいないあいだ、二人でゲームをしたり、バレーをしたりして、少しずつ近くなっていく」
レイ「研磨も人見知りで、一緒に遊ぶ相手といえば黒尾だけだった。黒尾は研磨にバレーを教えて、半分むりやり、こっちの世界に連れてきた。それを、少し負い目に思ってる。研磨が自分のバレーについて、黒尾に気を遣っていないわけじゃない、という意味のことを言ったとき、黒尾はショックを受けてる」
レイ「……この二人の関係に、私は新しい名前をつけない。幼なじみで、もう足りてる。足りてるところに、私の読みは足さない」
チアキ「連れてきた側の負い目、私にも少し覚えがあります。仕事の後輩に、舞台のDVDを貸したことがあって。一人、こっちの道に来ちゃいました」
レイ「その後輩さん、いま楽しそうですか」
チアキ「休憩室で推しの話になると、目が光ります」
レイ「なら、黒尾の心配と同じ。たぶん、いらない心配」[1]
読みました。私はいま、黙って水を飲みたい気分です。
どうぞ。次は結末です。
Ending and reveals結末(第33巻〜第37巻のあたり)Tap to open
レイ「春の全国大会の三日目。烏野と音駒が、公式戦で初めて向かい合う。ゴミ捨て場の決戦が、本当に全国の舞台で実現する。合宿でも練習試合でも音駒からセットを取れなかった烏野が、二セット目で初めて取る。最後はフルセットまでもつれて、烏野が競り勝つ。音駒の春は、そこで終わる」
レイ「試合の終わりぎわ、研磨は、自分の組んだ作戦を次々に破ってくる日向とやり合ううちに、とうとう楽しいと漏らす。試合のあと、研磨は黒尾に、バレーを教えてもらったことのお礼を言う。黒尾は、それに胸を打たれる」
レイ「何年も前に、半分むりやり連れてきた相手から。負けた日に。……ここは、何も足さない。書いてあるとおりで十分」
チアキ「私、手紙の最後には、いつも、返事はいりません、と書くんです。もらえたら、どうしていいか分からないので。黒尾くんは、頼んでもいないお礼を、いちばん遠回りな日に受け取ってる」
チアキ「カーテンコールで、袖に下がる一歩の手前、客席を一度だけ見る役者さんがいます。あの一度に、似てる」
レイ「劇場版で私が確かめられなかったのも、たぶん、その一度」[1]
……開けて、よかったです。
レイさんは、最後の話は連載で読んだんですか。
連載が終わったのは2020年の夏。私は大学三年で、研究室の机で最終話を読みました。最後の単行本が出たのは、その年の冬の手前。[1]
『週刊少年ジャンプ』2020年33・34合併号で完結。最終の第45巻は2020年11月発売
最後の箱です。高校のあと。
Ending and reveals最終章と連載のあとの読み切りTap to open
レイ「高校を出たあと、黒尾は日本バレーボール協会で働いてる。部署は、競技を広めるための仕事をするところ。研磨は大学に通いながら、株の取引と、プロのゲーマーと、動画の投稿をこなして、自分の会社の代表にまでなってる。その会社が、ブラジルで修行する日向のスポンサー」
レイ「黒尾が日向を、研磨と一緒の動画に誘ってるのを見た宮侑には、だまされて大きな借金を背負わされそうな誘い方だ、と茶化されてる」
レイ「連載が終わってから、黒尾の目で描かれた読み切りも一本ある。バレーボールのリーグと組んだ催しが舞台で、協会で働く黒尾が主役」
レイ「コートの中では、相手を読んで止める人だった。コートの外では、コートそのものを増やす側に回った。私の仕事に置きかえると、夜中の電話が鳴る前に手を打っておく係。うちのマネージャーの口癖が、人を直すな、仕組みを直せ。研磨を連れてきたのも、監督のために試合を急いだのも、黒尾はずっと、自分が勝つことより、バレーが続く場所のほうを整えてた」
チアキ「黒尾くんのこと、舞台の上の人としてしか見てなかったかもしれません。舞台を降りたあとも、ずっと誰かの立つ場所を作ってた人なんだね」[1]
レイはそこまで話して、手元に目を落とした。テーブルの上で、右手の指が二回、軽く天板を叩いた。
……今の、長かった?
開場まで、あと二十五分あります。
レイは短く鼻で笑い、最終巻をチアキのほうへ滑らせた。
この巻、置いていきます。帰りのバスで読めるように。
いいんですか。誕生日の前に読み返す本なのに。
今年は、もう読みました。読んだら、どこで手が止まったか教えてください。一行でいい。