十月の第一土曜、昼前。古本屋の軒先の100円コーナーの前では、年配の客が二人、背表紙を指でたどっていた。奥の帳場では店主のおじいさんが新聞を広げている。カウンターの内側には、深緑のエプロンの胸ポケットに鉛筆を差したイツキが、本を三冊抱えて立っていた。
リリィは図書館の帰りだった。茶色の鞄には返却を済ませたあとの空きが一冊ぶんあって、そこに入れる本を、来る電車の中でずっと考えてきた。
こんにちは、イツキさん。今日は、探している本があって来ました。
いらっしゃい。何系の本ですか。
紙の作り方の本です。手で漉く紙の。できれば古い本がいいです。写真より、道具が絵で描いてあるような。
あ、ちょっと待っててください。工芸の棚に、一冊あった気がします。
イツキは抱えていた三冊をカウンターに置き、店の奥の低い棚の前にしゃがみこんだ。戻ってきたとき、手には日に焼けた薄い函入りの本が一冊あった。函から出すと、木の枠や、細い竹を編んだすだれのような道具の図が、ていねいな線で何ページも続いていた。
ねえ、ここ……あ、すみません。ここ、見てください。道具の向きまで描いてあります。これです、探してたの。
最初の図のページだけ、そこで立ち読みしてってください。椅子、出しますね。
奥の帳場から、店主が黙って丸椅子を押し出した。リリィは小さく頭を下げて座り、本を膝に置いた。
……あの、紙の本を探してるわけを、話してもいいですか。少し長くなるかもしれません。
どうぞ。今日は100円コーナーの入れ替えも、もう終わりました。
『本好きの下剋上』っていう小説があって。イツキさんは、読みましたか。
題名だけ知ってます。うちの棚には、まだ一冊も来てないです。
私、自分では結末を知るのをすごく避けるほうで。だから人に話すときも、先に聞くことにしてます。最後まで話しても、いいですか。
いいですよ。僕は、先に知ってても読めるほうです。人に本を渡すときは、言わないようにしてますけど。
じゃあ、最初から。主人公は、本が大好きな女の人です。図書館で働けることがやっと決まった、その日に亡くなってしまうところから始まります。[1]
単行本の本編は全33巻(第一部〜第五部)。原作はウェブ小説で全5部677話
気がつくと、別の世界の小さな女の子、マインになっていて。その世界には紙がなくて、羊皮紙の本はとても手が届かない。だからマインは、自分で本を作ろうって決めます。[1]
読む前に、作るところから。
はい。それで、最初に試すのがパピルス。だめで、次が粘土の板。でもその粘土板は、男の子に壊されてしまって。名前は、えっと……ちょっと待ってください、確かめます。[1]
リリィは鞄からノートを出して、後ろのほうの頁をめくった。黒いペンの字が並んでいる。
フェイっていう子でした。そのあと木の札も竹の札も試して、やっぱりうまくいかなくて。最後に、植物から紙を作ることに成功します。作り方は、和紙に近いそうです。[1]
それで、和紙の本。
マインが何日もかけてやったことを、図で見てみたくて。本の中だと、手の感じまでは分からないので。
一回目で当たりに行かない話、いいですね。棚に並んでる本も、たいてい誰かが何回か外したあとの一冊だと思います。
失敗した順番が、全部書いてあるのがうれしくて。私のノート、魔法陣の練習でいっぱいなのに、一度も光ったことがなくて。でも粘土板が割れる場面を読むと、光らない円も、順番の途中なんだって思えます。
それに、マインには最初、魔法も何もありません。前の世界で読んだ本の記憶と、手伝ってくれる友だちと、自分の手だけ。足りないから、工夫が生まれる。私、そういうところに弱くて。
作った人のことも、何か知ってます?
作者さんは、お子さんが幼稚園に通いはじめて、時間ができたころに書きはじめたそうです。いくつか考えていたお話を、本と図書館っていう一つのテーマでまとめたら、この物語になったって。[1]
テーマで束ねる。……棚を作るときと、少し似てる気がします。ばらばらに入ってきた本でも、どこかで一本の筋が通ると、急に棚になります。
あと、マインの性格。最初は引っ込み思案で、自分からは動けない子として考えられていたそうです。でもそれだとお話が進まないから、いまのマインになったって。[1]
引っ込み思案のマインも、ちょっと読んでみたかったです。私はたぶん、そっち側なので。準備ばかりして、一頁目が始められないほう。
リリィさんは、ここまで電車で来てますよ。一頁目は、もう始まってると思います。
リリィは本を胸の前に立てて、顔の下半分を隠した。それから、ノートの頁を一枚めくった。
……ここから先は、第一部の後ろのほうです。話しますね。
Up to midway中盤の展開(第一部の後半)Tap to open
リリィ「マインはずっと体が弱くて、熱を出してばかりいます。それが、身食いっていう病気だと分かります。紙ができた、そのあとに」
リリィ「一度、本当に死にかけて、商人のベンノさんが手配してくれたフリーダっていう子の、壊れかけの魔術具で、なんとか命をつなぎます。でも、もう譲ってもらえる道具はない。このままだと、あと一年くらい」
リリィ「残る道は二つ。貴族に従わされて生きのびるか、家族と暮らしたまま死ぬか。……マインの家族は話し合って、一緒に暮らすほうを選びます」
リリィ「家族で決めた、っていうところで、私、本を抱えたまま動けなくなりました」
リリィ「それと、ルッツのこと。同い年の幼なじみで、マインと一緒に紙作りをした男の子です。マインの中に別の世界の人の記憶があるって、最初に気づいたのも、ルッツでした」
イツキ「最初に気づいた人が、黙って隣に残ってる。……僕は、そっちの人の話のほうが気になります」[1]
畳んだとこの最後、僕の好みが出ました。すみません。
いえ。ルッツのことを最初に言う人、私の周りにはあんまりいないので、うれしかったです。
それで、第一部の終わりです。
Up to midway中盤の展開(第一部の結末)Tap to open
リリィ「洗礼式の日に、マインは神殿の中に図書室があると知ります。それで、本が読みたくて巫女見習いを目指すって決めます。もちろん家族は反対します」
リリィ「神殿に断りに行ったら、身食いのことを知られてしまって。両親が神殿に呼び出されて、神殿長にマインを取り上げられそうになる」
リリィ「そこで、マインの家族が命がけで抗議します。それでマインは、貴族と同じ扱いの青色巫女見習いとして迎えられて、自由の身のままでいられることになります」
リリィ「図書室があるっていう理由だけで、知らない場所に飛びこもうとするの、私には少し分かるんです。図書委員に手を挙げたときの私、たぶん同じ顔をしてました。……マインほどの度胸は、ないですけど」[1]
一つだけ、いいですか。マインさん、本のためなら、まわりをけっこう巻き込みますよね。
お話の中でもトラブルメーカーって書かれてて、本のことになると、あとのことを考えずに動いて、しょっちゅう騒ぎを起こします。[1]
僕は、巻き込まれる側の人のほうが気になります。夢を追う人の隣で、段取りを全部持たされる人。
それは、違う読みだと思います。……でも、間違ってるとも思いません。マインの「読みたい」がまっすぐすぎて、周りの大人がいつも頭を抱えてるのは本当なので。
私が好きなのは、それでも周りの人が、マインの読みたい気持ちごと守ろうとするところです。迷惑を数えるより先に、手を貸してしまう人たち。……ノートに書きます。イツキさんの読み、黒い字で。
黒は、何の色ですか。
人から聞いたことの色です。自分で決めたことと、混ざらないように。
次が、第二部の終わりです。ここは、ノートがいちばん書けなかったところなので、先に言っておきます。
Ending and reveals終盤の展開(第二部の結末)Tap to open
リリィ「神殿に入ったマインは、インクを作ったり、型を使って刷ったり、職人さんたちを巻き込みながら、印刷のやり方を作っていきます。本が、やっと本になりはじめる」
リリィ「でも、マインの力と知識をほしがる貴族に狙われて、その悪意は家族にまで向きます」
リリィ「マインは、前の世界で、お母さんとあまり向き合わなかったことを悔やんでいます。本ばかり読む娘に、お母さんはいろんな趣味を一緒にやらせてくれてた。その経験が、こっちの世界で全部役に立ってる。だから、いまの家族を本当に大事にしてる」
リリィ「家族を守るために、領主がマインに作りものの身分を与えて、自分の養女にする。そのかわり、マインは家族との縁を切らなきゃいけない。表向きは、死んだことにされます」
リリィ「本を作るために始めたことの先で、本を一緒に喜んでくれた家族と、もう家族と呼び合えなくなる。……私、この巻を読んだ日、ノートを開いたまま、一行も書けませんでした」[1]
イツキは何も言わずに、一度だけ奥の帳場を振り返った。店主は新聞の同じ面を、まだ読んでいた。
……畳んだとこ、僕が読む番が来たら、その巻だけは閉店後に読むことにします。
それがいいと思います。……でも、ここから先は、明るい話もあります。
第三部の終わりにも大きな出来事があって、それは次に畳むところに入れておきます。私にはごほうびみたいな部なので。
Up to midway中盤の展開(第三部の終わりと第四部)Tap to open
リリィ「その前に、第三部の終わり。マインは魔力を固める薬を飲まされて、二年も眠ってしまいます。起きたら、義理のお兄さんと妹のほうが、先に大きくなってて」
イツキ「二年。本だと、一行で飛ばせますけどね」
リリィ「飛ばせないんです、マインにとっては」
リリィ「第四部で、マインは貴族の子が通う学校の、貴族院に入ります。図書館に早く行きたくて、一年生みんなで初日に全部の講義に合格しようって決めて、本当にやり遂げます」
リリィ「それで図書館に入れた日、うれしすぎて、まわりに祝福を山ほど振りまいてしまう。その日、主のいなくなっていた図書館の魔術具の主になります」
リリィ「そこから、マインは自分のことを図書委員だって名乗りはじめます。自称です」
リリィ「私、ここで声を出して笑いました。私はちゃんと手を挙げてなった図書委員なので、自称のマインに、ちょっとだけ勝ってます。……本の量では、ぜんぜん負けてますけど」[1]
畳んだとこの最後の一行で、僕も笑いました。
図書委員って、カウンターの内側から、借りられていく本の背中を見送れる係なんです。
それ、古本屋の帳場と同じだと思います。
Ending and reveals結末(第五部)Tap to open
リリィ「そのあと、マインはアーレンスバッハという領地の正式な領主になります。そして領地の名前をアレキサンドリアに変えて、図書館の町を作りはじめます。前の世界の知識から取った名前で」
リリィ「それから、下町の家族を自分の領地に呼び寄せます。そうすると、昔、家族との縁を切らされた契約の魔術が、そこでは効かなくなる。マインは、休みの日には家族のところへ行けるようになって、マインだったころの毎日を取り戻します」
リリィ「神官長だったフェルディナンドさんと婚約もするんですけど……そこは、まだ仮説です。私は、休みの日に家族の家へ行けるようになったところで、いちばん泣きました」
リリィ「もう一つ、作者さんの言葉があって。お話の中では、マインも自分のことを、麗乃がマインになったんだと思ってる。でも作者さんによると、マインのほうが麗乃の記憶を手に入れて、自分を麗乃だと思うようになったんだそうです」
リリィ「それを読んだ日、ノートに何色で書けばいいのか、決められませんでした。だから、鉛筆で書いてあります。まだ決めないことの色です」[1]
……鉛筆のとこ、いつか読ませてもらえますか。いまじゃなくていいんで。
はい。……書き終わったら、いえ、書き終わらなくても。
リリィは膝の上の和紙の本を閉じた。函の角が、何人もの手を通ったように丸くなっていた。
この本、いただいてもいいですか。
値段は、じいちゃんに聞いてください。
奥の帳場から、店主が指を一本立てた。リリィは財布を開けて、少し考えてから、うなずいた。
僕、いつもは終わりのほうの巻から入るんです。でも、その話は、頭から読みます。紙ができるとこまでは、順番に読みたいんで。
じゃあ、紙ができるところまで読んだら、どこが好きだったか、聞かせてもらえますか?