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我的6部作品

『もののけ姫』は雪に閉ざされた冬の一本

雪で道が閉ざされる新潟の山奥の家で、子どものトウゴが何回も観た森の映画。窓の外の山と同じ匂いのする森、どっちの味方にもなれなかった畑の端の記憶、両方の話を聞くアシタカ。救助隊員になったいま、『もののけ姫』の好きな所を話します。

適合這樣的人
森や山の近くで育った人へ。子どものころに観て、怖かった記憶だけが残っている人にも。
劇透範圍
無劇透 映画『もののけ姫』の始まりの設定(アシタカが腕の呪いを断つために西へ旅立ち、鉄を作る村タタラ場と森の神々の溝に出会うところ)と、作品全体の手触りまで。中盤から結末の出来事には触れません
發言的人
Tougo × Gen
主張的種類: 事實 作品中的觀察 有依據的推測 解讀 喜好
目錄 共 6 節·約 5 分鐘
  1. 雪で閉ざされた冬の一本
  2. 森の暗さが本物だった
  3. 畑の端で覚えたこと
  4. アシタカは両方の話を聞く
  5. 怖い場面があるのは先に言っておく
  6. 見えないものと暮らす話の続き

6選の五本目は『もののけ姫』。森と人が争う話だ。子どものころ、新潟の山の家で何回も観た。どっちかだけが悪いわけじゃない。山で暮らしていると、それがよく分かる。今日は、この映画と出会った冬の話と、好きな所を話す。結末には触れない。

雪で閉ざされた冬の一本

三男坊の俺が育った山の家は、冬になると雪に埋もれて、町へ下りる道が使えなくなる。学校が休みの日は、外に出ても雪かきか、兄貴たちと雪に穴を掘るくらいしかやることがない。そういう日の午後、居間のテレビで観たのがこの映画だった。家にあった一本を、同じ冬のあいだに何回も観た。兄貴たちが飽きても、俺は一人で観ていた。ストーブの上でやかんが鳴って、窓の外では雪が音もなく積もっていく。あの冬の居間の匂いと、この映画は、いまも俺の中で一つになっている。喜好

脚本・監督は宮崎駿さん。スタジオジブリのアニメーション映画だ。事實[1]

舞台は室町時代のころの日本。エミシの村の若者アシタカが、腕に呪いを受け、その呪いを断つ手立てを求めて、西へ旅立つ。事實[1]

旅の先には、森を切り開いて鉄を作る村、タタラ場がある。その村を率いるエボシと、森の神々のあいだには、深い溝がある。サンは、山犬に育てられた人間の娘で、森の側に立っている。事實[1]

観終わると、婆ちゃんに山の神さまのことを聞いた。婆ちゃんは、山に入るときは黙って頭を下げろ、木を切る前にも下げろ、とだけ言った。理由は教えてくれなかった。次の日、俺は雪の積もった裏山の入口で、誰もいないのに頭を下げてみた。なんだか、森が少しだけこっちを見逃してくれた気がした。いまでも山に入るときは、口には出さないが、入口で一回だけ頭を下げる。喜好

森の暗さが本物だった

子どものころの俺は、最初、この映画の森が怖かった。暗くて、湿っていて、何かがこっちを見ている気がする。けど、窓の外を見ると、うちの裏の山も同じ顔をしていた。雪の下で、木が黙って立っている。画面の森と、窓の外の森が、同じ匂いをしている気がした。それで怖さが半分になって、残りの半分は好きになった。喜好

大人になって観直すと、森の描き方の細かさに驚く。苔の色、水の冷たそうな光、木の根の張り方。山で暮らした人間の目で見ても、あの森は、ちゃんと山の森だ。走り込みで山道に入ると、たまにあの映画の森の一場面に入りこんだような気がして、足を止めることがある。作品中的觀察

畑の端で覚えたこと

この映画で、俺がいちばん大事にしているのは、ここだ。鉄を作る村の人たちは、森を切る。森の神々は、それを許さない。どっちにも、生きていくための理由がある。解讀

山の家でも、同じことが起きていた。冬の薪のために木を切る。畑を作るために、山を少しずつ開く。すると、猿や猪が畑に降りてくる。せっかく育てた野菜が、一晩で荒らされる。親父は怒る。けど、山の側から見れば、先に入ってきたのは人間のほうだ。子どもの俺には、どっちの言い分も分かってしまって、どっちの味方にもなれなかった。この映画は、その、どっちの味方にもなれない気持ちを、そのまま大きな画面に広げて見せてくれた。喜好

いまも冬になると、休みをまとめて取って実家の山に入る。雪の上には、獣の足跡がはっきり残る。たどっていくと、畑のすぐ際まで来て、引き返しているのが分かる。向こうも、こっちの様子をうかがっている。その足跡を見るたびに、この映画の森の端を思い出す。喜好

Gen

海も同じだな。魚を獲らなきゃ、俺たちは食えねえ。けど獲りすぎりゃ、海が痩せちまう。どっちも腹は減ってるんだよ。解讀

Tougo

そうなんです、ゲンさん。山の家では、それを毎年、畑の端で見てました。喜好

アシタカは両方の話を聞く

アシタカが好きだ。森の側にも、村の側にも、すぐには立たない。まず両方の話を聞く。どちらが悪いかを決める前に、目の前で倒れている人に手を貸す。俺はそこに、救助の仕事の形を見る。現場では、どっちが悪いかを決めるのは俺たちの仕事じゃない。先に、全員を運ぶ。消防に入って最初に叩きこまれたのも、それだった。運ぶ相手が誰であっても、担架を持つ手の力は変わらない。子どものころに観た映画の若者が、ずっと先の俺の仕事の形を先に見せてくれていたんだと思う。解讀

子どものころは、アシタカの強さに憧れていた。いまは、あの落ち着きのほうに憧れる。怖い場面でも、声を荒らげない。相手の目をまっすぐ見る。女の人の前でまともに口がきけない俺には、あれがいちばん真似できない所かもしれない。喜好

怖い場面があるのは先に言っておく

子どもには怖い場面もある映画だ。俺も小さいころは、何か所かで目をつぶっていた。長い映画でもある。一回で全部受け取ろうとしなくていいと思う。俺は、森の場面だけを楽しみに何回も観ているうちに、少しずつ全体が見えてきた。森が好きな人なら、そこから入るのが楽だった。俺はいまも、観るときは少しだけ音を大きくする。風と水の音が、窓の外の山の音と混ざるくらいがちょうどいい。喜好

見えないものと暮らす話の続き

一本目の『もやしもん』は、蔵と台所の、目に見えないものの話だった。こっちは、森の、目に見えない神々の話だ。人は、見えないものと一緒に暮らしている。山の家で覚えたその感じが、俺の6選の底にずっと流れている。そして六本目の『神々の山嶺』で、俺はもう一度、山の前で黙って立つ人間を観ることになる。喜好

どっちの味方にもなれなかった、畑の端の子どもの気持ち。この映画は、それを大きな森にして見せてくれた。

本文中的作品

講述者 Tougo 在山裡長大、話少又直率的救援隊員 閱讀更多 Tougo 的文章 →

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