長距離バスが二時間遅れると分かったのは、昼の一時すぎだった。待合所のベンチで、タモツは同じバスを待っていた男の子とカードをして、最後の一戦できれいに負けた。男の子が母親に手を引かれて売店へ行ったあと、ノアは隣に座って、紙コップのお茶を一つ差し出した。
待合所のベンチで
さっきの子、強かったね。負けたほうが、いちばんいい顔してた。
だろ! 最後の一枚、オレの手札を完全に読んでたぜ。あの子、次に会ったらもっと強くなってる。
負けて笑えるのって、ずっと前から?
……いや。笑えなかった時期がある。高校に上がるころだ。
タモツはお茶を一口飲んで、デッキケースのふたを指で開けたり閉めたりした。声が、さっきより少しだけ低くなっていた。
カードの大会で勝てなくなったんだ。小学生のころはそこそこ勝ってたのに、気づいたら対戦の相手のほうが、オレの一手先をいつも見てるようになってた。一回戦で負けて、次の大会も一回戦で負けて。気づいたら、上のほうの卓には座れなくなってた。
上のほうの卓、って?
勝ち残るほど、前の卓に移っていくんだ。前のほうは静かで、シャッフルの音しかしない。オレはずっとそこに座ってるもんだと思ってた。いつの間にか、入口に近い卓で、知らない年下の子にあっさり負けるようになってた。
負けたあと、どうしてたの?
会場の隅に立って、決勝を最後まで見てた。さっさと帰ればいいのにな。強いやつがカードを出す手を、うしろからずっと見てる。で、家に着いたら、デッキケースを机の引き出しに入れて、閉める。
見るのは、やめなかったんだ。
やめられなかった。引き出しを閉めたあと、毎回やってたのが、録画してあった『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』を観ることだったんだ。
録画は、いつ観てたの? 夜?
夜の十時すぎ。家はたいてい静かで、居間の大きいテレビをひとりで使えた。録画のラベルには、子どものころのオレの字で、その回に出てくるやつの名前が書いてある。海馬、海馬、遊戯、海馬って。
その字を見るだけで、勝ってたころの自分を思い出して、ちょっとしんどかった。それでも再生だけは押してたんだよな。
早送りの途中で止まった
子どものころは、海馬の出る回まで早送りしてた。強くて、迷わない男だからな。でも負けが続いた夜は、あいつがまぶしすぎて観られなかった。
代わりに、早送りの途中で指が止まるようになったのが、城之内くんの出てくるところだった。
城之内くん。遊戯の友だちの人?
そう、遊戯の親友だぜ。物語の始まりのころは、勝負の腕はまだまだで、決闘者としては駆け出しなんだ。事實[1]
そこから遊戯に教わりながら少しずつ腕を上げて、妹のために大きな大会に出る。最初から強いやつじゃないんだ。強くなる途中のやつなんだよ。事實[1]
強い人を観る夜と、途中の人を観る夜があったんだね。
それだ。……ノア、いまのは手帳に書くなよ。オレが言ったことにしときたいから。
ノアは「ふふ」と息で笑って、膝の上で開きかけていた手帳を閉じた。
負けた人にも隣がある
城之内くんの、どこがいちばん効いたの?
負けても、席がなくならないように見えたところだな。オレが観てた回では、城之内くんが追いこまれても、遊戯たちが横にいた。負けたら仲間じゃなくなる、なんて空気は、オレには感じられなかった。解讀
城之内くんがカードを引く前は、オレまで手のひらに汗をかいてた。うまくいけばソファで声を出して、だめなら一緒に悔しがる。大会で負けて帰ってきた夜なのに、テレビの前ではちゃんと悔しがれたんだ。自分の負けだと、もう悔しがり方も分からなくなってたのにさ。喜好
自分の負けより先に、人の勝負で悔しがり方を思い出したんだね。
あのころのオレがいたのは、負けたら上の卓から下りる、それだけの場所だった。画面の中だけは、負けたやつの隣にも、ちゃんとだれかが座ってたんだ。
そうなの? 勝ち負けのはっきりしたアニメだと思ってた。
勝ち負けははっきりしてる。でも、勝負が終わったあとの顔のほうが多く映ってる気がしてさ。それと、もう一個ある。城之内くんは、自分のために勝ちたかったんじゃない。妹のために出てた。解讀
オレは、勝つこと以外に理由がなかった。だから負けたら、全部なくなった気がした。理由が自分の外にあるやつは、負けてもまだ立ってられる。録画を巻き戻しながら、ずっとそれを考えてた。
近いね。でも私は、理由を外に置くと、今度は自分が決めたことにならない気がして。……決められないとき、手元の理由ばっかり並べちゃうほうだから、ちょっと耳が痛い。
手を離しても嫌いにならなかった
正直に言うと、城之内くんを観ても、勝てるようにはならなかった。高校のあいだに大会はやめたし、カードもゲームの対戦も、いったん手を離した。
やめたのに、支えになった話なの?
そこなんだよ。やめても、嫌いにはならなかった。負けた夜に、強いやつじゃなくて途中のやつを観てたからだと思う。勝負の席から下りても、カードを好きでいる席は残ってた。
だから何年かして、親戚に頼まれてカードを見分ける手伝いを始めたとき、すぐに手が動いた。引き出しの中で、ちゃんと待っててくれたんだぜ。
勝つための席と、好きでいるための席は、別々にあったんだ。
オレが何年もかかって分かったことを、ノアは一行で言うんだもんな。
そのころの話、だれかにしてた?
してない。人に話すのは苦手だったからな。城之内くんの回を一本観て寝る、それだけ。だから話すのはノアが一人目だ。……いや、ギアドラには何回かしゃべってるから、二人目か。
負けた夜の一本
いまも観るの?
旅先で負けた日は、寝るまでに城之内くんの回を一本だけ観る。どの回かは決めてない。その日の負け方で選ぶんだ。今日は手札を読まれた負けだから、読まれても食らいついてる回がいいな。喜好
負けた夜の一本、いい決めごとだね。私は落ちこむと、本の同じ行を何回もなぞっちゃう。一本で終わりにできるの、ちょっとうらやましい。
タモツの肩のあたりで、ドラゴン型のドローン、ギアドラが小さく羽を鳴らした。「バスが来るまで、あと四十分です。一本なら間に合います。音は小さめにしてください、タモツ」。
ほらな、相棒の許可も出たぜ。
私も一緒に観ていい? 城之内くんのこと、まだどこから入ればいいか分からないけど。
売店から戻ってきたさっきの男の子が、ベンチの端からタモツの手元をのぞきこんだ。タモツはデッキケースを見せて、もう一戦、と指を一本立てた。男の子は母親の顔を見て、それから大きくうなずいた。
この一戦が終わったら、城之内くんが出てくる最初のころから一緒に観ようぜ。強くなる前の顔から観られるの、ちょっとうらやましいんだ。
勝てない夜は、強い人より、強くなる途中の人を観る。負けた人の隣にもだれかが座っている画面は、好きでいる席を残しておいてくれた。