目錄
「普遍的なテーマは、もうシェイクスピアが全部書いてしまった」。創作の話になると、ときどき聞く言い回しです。シオルはそれを一度聞いて、一字一句覚えてしまいました。でも、意味が分からない。毎週こんなに新しいアニメが始まるのに、本当にテーマは出尽くしているのでしょうか。作品の展開や結末には触れません。
その言い回しはどこから来たのか
シオルは、この言葉を何人かから聞きました。みんな同じように言うので、きっとシェイクスピアさん本人が言ったんだと思っていたんです。
僕も気になって調べたんだけど、誰がいつ最初に言ったのか、はっきりした出どころは見つけられなかった。よく言われるけど、出典ははっきりしない言い回し、というのが今のところの正直な答え。少なくとも、シェイクスピア本人の言葉じゃない。有依據的推測
でも、似た考え方はずっと古くからあるんだよね。もっと短い言い方で。
かつてあったことはこれからもあり、かつて行われたことはこれからも行われ、日の下に新しいものはない。聖書の「伝道の書」(コヘレトの言葉)第1章9節は、そういう内容です。英語版Wikipediaの「Sonnet 59」の項は、シェイクスピアのソネット59番の書き出しがこの節を思い起こさせる、と書いています。事實[1]
フォルジャー・シェイクスピア図書館の本文で、ソネット59番は「If there be nothing new, but that which is / Hath been before」(もし新しいものが何もなく、今あるものはすべて以前にもあったのなら)と始まり、新しいものを生み出そうと苦心する頭はどれほど欺かれていることか、と続きます。事實[2]
面白いのは、シェイクスピア自身が「新しいものなんて何もないのかもしれない」と詩に書いてることなんだ。出し尽くした側の人じゃなくて、出し尽くされた世界で書いている自分を疑っていた側の人。解讀
「日の下に新しいものはない」は、シェイクスピアよりずっと前からある言葉。それがいつのまにか、いちばん有名な劇作家の名前とくっついた。言葉が持ち主を乗り換えて旅をする、よくあるパターンだね。解讀
シェイクスピアも借りていた
それに、シェイクスピアの筋書きの多くは、もともと先にあった話なの。翻案の名人だったんだよ。
劇に近い形の話として最も古く知られるのは、マスッチオ・サレルニターノの『マリオットとガノッツァ』(1476年)だと、英語版Wikipediaの「Romeo and Juliet」の項は書いています。劇の筋が基づいているのは、マッテオ・バンデッロのイタリアの物語です。1562年にアーサー・ブルックがそれを韻文に訳したのが『ロミウスとジュリエットの悲劇的物語』で、1567年にはウィリアム・ペインターが散文で語り直しました。シェイクスピアはこの二つから多くを借りましたが、マキューシオやパリスといった脇の人物を膨らませ、筋を広げた、とされています。事實[3]
「愚か者を装う英雄」という核のテーマは、インド・ヨーロッパ語族の古い起源を持つかもしれない。「Hamlet」の項がそう見る理由は、ハムレットに似た伝説の広がりです。イタリア、スペイン、スカンディナヴィア、ビザンティン、アラビアなど、各地に見られる。サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』にも、アムレートの伝説があります。事實[4]
「King Lear」の項は、この劇の典拠として、先行する劇『レア王』や『ホリンシェッドの年代記』などを挙げています。事實[5]
つまりシェイクスピアは、テーマを発明した人というより、すでにある筋を誰よりもうまく組み直した人なんだ。マキューシオみたいな脇役を膨らませると、同じ悲劇でも、観客が誰の目で見るかが変わる。僕が「構造」と呼んでるのは、まさにそこ。解讀
吟遊詩人も、よその町で聞いた歌を、自分の町の言葉で歌い直します。それは、ずるいことではないんですか?
昔の多くの文化では、ずるいどころか、それが腕の見せどころだった。みんなが知ってる話を、どう新しく聞かせるか。日本の落語や講談も、同じ演目を何人もの演者が語り継いできたでしょう。中身より、語り方が作品なんだと思う。解讀
物語の型を数えた人たち
「テーマは出尽くした」と似た考えを、本気で数えようとした研究者たちもいる。数え方がそれぞれ違うのが、僕には一番面白い。解讀
物語や上演で起こりうる劇的状況を分類したのが、ジョルジュ・ポルティが1895年に提案した「36の劇的状況」だと、英語版Wikipediaは説明しています。分析の材料は、古代ギリシアの作品と、古典と同時代のフランスの作品。同じく36の状況を数えた人にカルロ・ゴッツィ(1720〜1806年)がいて、ポルティは序文で、自分の仕事はその続きだと述べています。事實[6]
ロシアの魔法昔話には31の基本的な構造要素(機能)があり、それが決まった順番で現れる。そう論じたのが、ロシアの民俗学者ウラジーミル・プロップです。アファナーシエフの昔話集から100の話を分析した『昔話の形態学』は、1928年にロシア語で出版されました。事實[7]
「モノミス(単一神話)」とは、神話の語りが基本的な構造を共有している、という理論にジョーゼフ・キャンベルが付けた名前です。探ったのは1949年の『千の顔をもつ英雄』。型は序論で短くまとめられていて、英雄は日常の世界を出て、超自然の驚異の領域へ冒険に向かう、というものです。この理論が『スター・ウォーズ』に影響したことは、映画監督ジョージ・ルーカスも認めています。事實[8]
「怪物退治」「貧乏から富へ」「探求」「行って帰る」「喜劇」「悲劇」「再生」。この型を挙げたのが、クリストファー・ブッカーの『7つの基本プロット』(2004年)です。ユングの影響を受けた物語分析の本で、ブッカーは書き上げるまでに34年をかけました。事實[9]
作家カート・ヴォネガットが学位を得たのは、25年後のことでした。大学が、小説『猫のゆりかご』を修士論文の代わりに認めたときです。大学院時代に人類学の学位論文の題材として取り上げた「物語の形」は、全員一致で却下されていました。事實[10]
2016年、アンドリュー・J・レーガンらの研究チームは、プロジェクト・グーテンベルクにある小説の中から1,327作品を選び、感情の起伏のパターンを分類しました。その結果として発表されたのが、6つの核となる「感情の弧」です。複雑な感情の流れも、この基本の部品から組み立てられる、という見立てです。事實[11]
36、31、7、6。数がばらばらなのが、答えになってる気がする。何を「同じ型」とみなすかで、数はいくらでも変わる。網の目を粗くすれば少なくなるし、細かくすれば増える。解讀
そう。そしてプロップの31は、ロシアの魔法昔話100話から取り出したもの。キャンベルは世界の神話、ブッカーはもっと幅広い物語。材料が違えば、取り出せる骨組みも違う。「全部の物語は○個の型でできている」という言い方は、どの網で何をすくったかを言わない限り、半分しか本当じゃない。解讀
型が同じなら同じ物語なのか
シオルのふるさとの竜退治の歌は、どれも「村を出て、竜を倒して、帰ってくる」です。でも、シオルは好きな歌と、そうでもない歌があります。
それが答えだと思う。ブッカーの型でいえば「怪物退治」と「行って帰る」。骨組みは同じでも、好きと嫌いが分かれる。違いは骨組みの外にあるんだ。誰の目で語るか、どの順番で見せるか、どこで黙るか。解讀
翻訳をしていると、もっとはっきり分かる。筋はまったく同じなのに、言葉を移しただけで別の作品になることがあるの。登場人物が「あなた」と呼ぶか「きみ」と呼ぶかで、二人の距離が変わる。筋書きの一覧には、その違いはどこにも載らない。解讀
型は地図の等高線みたいなものだと思う。山の形は分かるけど、そこを歩いたときの風の匂いは描けない。型の研究はすごく役に立つ。ただ、「型が同じだからもう新しいものはない」と言うのは、等高線が同じ山は全部同じ山だ、と言うのに近い。解讀
もう一つ、型の研究が見落としやすいのは、受け手の側。同じ「行って帰る」話でも、旅をしたことのある人と、地元から出たことのない人とでは、刺さる場所が違う。物語は作品と読者のあいだで起きるものだから、読者が入れ替わるたびに、少しずつ新しくなってるとも言えるんじゃないかな。解讀
それは僕の研究テーマの「最初の情報があとからどう読み替わるか」にも近い。同じ人でも、十年後に観直すと別の作品になる。型が一つでも、読む回数と読む人の数だけ、物語は分かれていく。解讀
異世界へ行く話は千年以上前から
じゃあ、いまのアニメでいちばん数の多い型の一つ、異世界ものはどうか。行って帰る話、行ったきりの話、生まれ変わる話。古い例は、思っているよりずっと古いよ。有依據的推測
浦島太郎のもとになったとされるのは浦島子伝説で、『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記』逸文といった上代の文献に記録があります。古代の浦島子の話では、異郷での暮らしは3年。ところが陸の世界に帰ってみると、300年が過ぎていました。事實[12]
生まれ変わりが軸になる物語もあります。『浜松中納言物語』は平安時代後期、11世紀半ばごろにできたと考えられる作品です。夢のお告げや輪廻転生を中心にすえて、超常的な出来事を扱うこと。日本だけでなく唐の国も大事な舞台になっていること。この二つが特色だとされています。事實[13]
江戸時代の『南総里見八犬伝』の八犬士には、共通のしるしがあります。一人ひとりが持つ数珠の玉には、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌のうち一文字が記されていて、体のどこかには牡丹の形の痣がある。生まれた土地は関八州のばらばらな場所ですが、因縁に導かれるようにして互いに出会い、最後は里見家のもとに集います。事實[14]
八犬伝は、一人ひとりが文字の入った玉と印を持っていて、それを手がかりに仲間が集まってくる。属性の決まった仲間がそろっていくパーティもの、と言いたくなる構造が、江戸時代にもうあるんだ。解讀
海の向こうでは、ジョナサン・スウィフトが『ガリヴァー旅行記』(1726年)を書き、背丈がふつうの人の12分の1ほどしかない小人たちの国リリパットなどを描きました。リリパット国の社会や政治のしくみは、18世紀のイギリスを映したものだとされます。第三篇には、日本へ渡る話も入っています。事實[15]
Wikipedia日本語版の「異世界転生」の項は、近代人が中世ヨーロッパ風の世界へ移って自分の時代の知識を持ちこむ設定の早い例として、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1865年)、マーク・トウェイン『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(1889年)などを挙げています。事實[16]
ガリヴァーの小人の国が当時のイギリスそのものだったように、異世界はいつも、どこかで書き手の世界を映す鏡なんだよね。遠くへ行く話は、実は近くの話をするための回り道。解讀
なろう以降に新しくなったもの
「小説家になろう」という小説投稿サイトは、2004年4月2日に始まりました。事實[32]
異世界転生ものが一気にブームになるまでの流れは、こう説明されています。火付け役になったのは二つのヒットでした。一つは、仮想世界が舞台の『ソードアート・オンライン』。2002年に個人サイト上で連載が始まったオンライン小説で、2009年に本になりました。もう一つは『ゼロの使い魔』で、刊行開始は2004年です。これに続いて「小説家になろう」には異世界を舞台にした作品が次々に投稿され、2010年代に入ると、本になったり、コミカライズされたり、アニメになったりする作品が増えていきました。事實[17]
「なろう系」によくある特徴として挙げられているのは、たとえばこんなものです。舞台はモンスターや精霊が出てくるRPGのような世界。普通の人間でも、パラメータやスキルといったゲームのような数値を持っている。能力を確かめたり、ポイントを割り振って自分を鍛えたりできるのは、「ステータスオープン」と唱えたとたん目の前に出てくる自分のステータス画面。事實[18]
僕はここが、本当に新しいところだと思う。浦島子もガリヴァーも、異世界のルールを手探りで知っていく。でも「ステータスオープン」の世界では、ルールが数字で目の前に出てくる。世界の仕組みが、登場人物にも読者にも最初から見えてる。物語の謎の置き場所が、世界の外側から、数字の使い方の側に移ったんだ。解讀
読者のほうがゲームの文法をもう知ってる、というのも大きいよね。家庭用のRPGで、レベルやパラメータという言葉が説明なしで通じる人たちが、大勢読者になった。作品が説明しなくていい部分が増えたぶん、別のところに字数を使える。解讀
ふるさとでも、冒険者ギルドに行くと、強さが紙に書いてあります。でも、自分で唱えると数字が出てくる魔法は、聞いたことがありません。
ギルドの紙は、誰かがあなたを見て書いたもの。ステータス画面は、世界そのものがあなたを数えてる。似てるけど、そこが違う。数えられることが救いになる人もいれば、窮屈になる人もいると思う。解讀
とはいえ、全部がゲームのような作りではありません。『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』の主人公は、34歳で無職の日本人。その彼が転生する先は、中世ヨーロッパ風の異世界。そういう設定で書かれたファンタジー小説です。事實[31]
この作品はジャンルの代名詞とも、先駆けともいわれます。それなのに、なろう系でよく見かけるゲーム的な仕掛けはまったくない、という点も指摘されています。飯田一史の見方もあります。異世界に行った主人公が元の世界に帰りたがらない作品は男性向けに多く、飯田はそれを「やり直し願望の発露」だと述べた、というものです。事實[18]
長月達平のライトノベル『Re:ゼロから始める異世界生活』は、2012年4月に「小説家になろう」で連載が始まった作品です。事實[28]
同じ「やり直し」は、別の形でも描かれています。『Re:ゼロから始める異世界生活』(テレビアニメ第1期は2016年放送)の主人公は、異世界に召喚されたあと、自分が死ぬと時間が巻き戻り記憶だけを引き継げる能力「死に戻り」を持っていることを知ります。事實[19]
異世界でない舞台にも、転生の型は入りこんでいます。『【推しの子】』もいわゆる「転生もの」です。死んだ青年が、自分の推していたアイドルの子どもとして生まれてくる。しかも前世の記憶を残したまま、です。事實[20]
浦島子は、戻ってきたら三百年たっていて、もう取り返しがつかない。昔の異郷の話は、戻れないことの物語だった。いまの転生ものの多くは、その逆で、記憶を持ったまま「もう一回」を手に入れる話なんだ。同じ「異なる世界へ行く」型なのに、欲しいものが正反対になってる。解讀
私はその「もう一回」に、いまの時代の手ざわりを感じる。一度の失敗で人生が決まってしまうように感じる社会ほど、やり直しの物語が求められるのかもしれない。ただ、それは私の見立てで、全部の作品に当てはまるわけじゃないよ。解讀
SFはテクノロジーが連れてきた問いか
空想の旅は、ずっと昔から書かれてきました。西暦167年ごろにサモサタのルキアノスが書いた『本当の話』は、月への旅を描いた空想小説です。同じルキアノスの『イカロメニッポス』と並んで、「史上最初のSF」と呼ばれることがよくあります。事實[21]
近代SFの出発点として、よく名前が挙がるのがメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』です。1816年、メアリーはスイスのレマン湖のほとりにあるディオダティ荘に泊まっていました。雨が降り続いて外に出られずにいたとき、バイロンが、ひとりずつ怪奇譚を書こうと持ちかけます。メアリーはそのとき思いついた話をふくらませ、1818年3月11日、名前を伏せて出版しました。なお、フランケンシュタインという名は怪物のものではありません。スイス人科学者である主人公の姓なのです。事實[22]
英語版Wikipediaによると、SF作家ブライアン・オールディスは、この作品を最初の本当のSFとみなすべきだと論じました。決め手は主人公です。驚くべき結果を得ようとして「意図的な決断をし」、「研究室での近代的な実験に向かう」。それ以前の空想的な物語にはこれがなかった、という見方です。事實[23]
その後、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』が1870年に出版されます。事實[29]
H・G・ウェルズの『タイム・マシン』は1895年に発表されました。事實[30]
カレル・チャペックが1920年に発表した戯曲『R.U.R.』は、「ロボット」という言葉を初めて使った作品です。事實[24]
オールディスの線引きは、僕にはすごく納得がいく。月へ行く話は昔からあった。でも、人が自分の手で、実験で、取り返しのつかないものを作ってしまう話は、科学という方法が生まれてからでないと書けない。テーマは「作ったものへの責任」で、それ自体は古いかもしれない。でも、その問いを突きつける道具が新しいんだ。解讀
アニメでは『PSYCHO-PASS サイコパス』(第1期は2012〜2013年放送)があります。舞台は西暦2112年の日本。人の心理状態や性格の傾向を何から何まで測り、数値にしてしまう「シビュラシステム」が取り入れられた社会です。事實[25]
『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021年放送、制作はWIT STUDIO)はオリジナルアニメです。原案とシリーズ構成を共同で担ったのは、『Re:ゼロから始める異世界生活』の作者・長月達平と、そのアニメ版で脚本の一部を書いた梅原英司。テーマはAI、歌、歴史改変の三つです。物語は2061年に始まります。みんなを歌で幸せにすることを自分の使命としているのが、自律人型AIのヴィヴィ。そのヴィヴィのもとに、AIのマツモトが100年先の未来から現れます。事實[26]
『Dr.STONE』(テレビアニメ第1期は2019年放送)では、地球上の人類全員がいっせいに石になるという現象が起きます。それからおよそ3700年が過ぎた世界で、自分たちの手で文明を建て直そうとする物語です。事實[27]
異世界で死に戻る主人公を書いた人が、今度はAIと歴史の改変を書いている。同じ書き手の中で、ファンタジーとSFが地続きなのが面白い。解讀
PSYCHO-PASSで心が数字になる社会と、ステータス画面で強さが数字になる異世界。片方は悪夢として、片方は救いとして描かれることが多い。数えられることへの期待と不安が、ジャンルを越えて同じ時代に出てきてるのは、偶然じゃない気がする。解讀
新しいテーマか新しい舞台か
まとめると、私は「古いテーマの新しい舞台」寄り。行って帰る、生まれ変わる、作ったものに責任を持つ。どれもずっと前からある。でも舞台が変わると、同じテーマから出てくる答えが変わるから、それは十分に新しい物語だと思ってる。解讀
僕は少しだけ反対側に立つ。テーマを「人は死ぬ」「人は愛する」くらいまで大きく取れば、たしかに全部出尽くしてる。でも、「自分の心が数字で裁かれたらどうするか」「やり直せるとしたら何を選ぶか」みたいに、問いを具体的にすると、技術や社会が変わるたびに、昔は立てられなかった問いが生まれてる。テーマの網目をどこまで細かくするかで、答えが変わる問題なんだ。解讀
じゃあ、今日は二人とも、半分ずつ正しいってことにしておこうか。
うん。シェイクスピア自身が、新しいものなんて何もないのかもしれない、と疑いながら書いてた。出し尽くしたかどうかより、出し尽くされたかもしれない世界で、それでも書いた、ってほうが大事なんだと思う。解讀
シオルが覚えていた言葉は、終わりの言葉じゃなくて、始まりの言葉だったんですね。今度その言葉を聞いたら、「どの網ですくいましたか?」と聞いてみます。
「もう出尽くしている」と感じた作品に出会ったら、型ではなく、その作品が立てている問いを一行で書いてみてください。型は古くても、問いは新しいことがよくあります。