目錄
6選の五つめは、漫画『やがて君になる』です。私はこの作品を読んで、自分の読み方の癖に気づきました。登場人物の気持ちに、すぐ名前をつけたくなる癖です。今回は第1巻の紹介にある導入までにとどめて、好きなところを話します。
学びを広げた時期に
出会ったのは、高校を出て、学ぶ範囲を広げていた時期です。人の気持ちを考える本をたくさん読んで、気持ちには正しい名前があって、それを当てられることが理解なのだと思いこんでいました。この漫画は、その思いこみを、静かにほどいてくれました。喜好
原作は仲谷鳰さんの漫画で、「月刊コミック電撃大王」で連載の作品です。テレビアニメ版の監督は加藤誠さんです。事實[1]
新入生の小糸侑は、人を好きになる気持ちがわからないことに悩んでいます。そんな侑が出くわしたのが、生徒会の先輩である七海燈子が告白されている場面でした。燈子は、どんな告白を受けても気持ちが動いたことはないという。侑はその燈子に共感を覚えます。事實[2]
好きな理由1 「わからない」をわからないまま置いておく
侑は、自分の気持ちについて「わからない」と感じていることを、ごまかしません。わかったふりをして周りに合わせることもできるのに、そうしない。私はその正直さに、何度も救われるような気持ちになりました。わからない、と言える人のそばでは、相手も自分の気持ちを急がなくていいからです。解讀
以前の私なら、侑の気持ちに名前を書き込んでいたと思います。「本当はこう思っているんでしょう」と。この作品は、そういう読み手の書き込みを、やさしく押し返してきます。人の気持ちを、自分の定義に押し込まないこと。それが私の読み方の、いちばん大きな更新でした。解讀
好きな理由2 台詞のないコマが長く感じる
この漫画には、二人が並んでいるだけで、何も話していないコマがよく出てきます。目線がどこを向いているか、肩と肩のあいだがどれくらい空いているか。ページの上では一瞬なのに、読んでいる私の中では、その沈黙がとても長く感じられます。作品中的觀察
長く感じたなら、コマの大きさや並び方も見てみると面白いと思う。会話を細かいコマで刻んで、黙る場面だけ広いコマにすると、読む速度は自然に落ちるから。漫画は、読者の時間をページで調整できるんだよね。有依據的推測
そうか。長く感じたのは、私が感傷的だからだけじゃないかもしれないんだね。今度ひらいたら、コマの幅を確かめてみる。
でも、そこで何を感じるかは、コマの幅からは決まらない。スイが長く感じた中身のほうは、僕には書けないな。解讀
好きな理由3 同じ言葉が関係とともに変わっていく
この作品では、「好き」という言葉が、誰が誰に言うか、いつ言うかで、まるで違う重さになります。同じ一語なのに、ある場面ではうれしくて、ある場面では少し怖い。私の研究テーマの「同じ言葉が、関係の変化で違って聞こえる理由」を、いちばん鮮やかに見せてくれるのが、この漫画だと思っています。解讀
恋愛の物語ですが、私はこれを「関係の言葉を探す物語」として読んでいます。友情とも恋とも言い切れない、名前のつかない近さ。それを、急いで名づけずに描き続けてくれるところが、私にとっていちばんの魅力です。解讀
ノートの欄を二つに分けた
この漫画を読むようになってから、私は感想ノートの書き方を変えました。ページの左に「見たこと」、右に「受け取ったこと」を書く。目をそらした、返事をしなかった、手を引っこめた。そういう、誰が読んでも確かめられることは左へ。そこから私が感じた気持ちは、右へ。喜好
分けて書いてみると、自分がどれだけ右側を早く埋めようとしていたかがわかりました。左側に書いたことが同じでも、読み返すたびに右側は変わっていきます。気持ちに答えをつけないというのは、何も感じないことではなく、感じたことを「いまの私の受け取り方」として、書き換えられる場所に置いておくことなのだと思います。解讀
苦手かもしれない人へ
恋愛漫画は登場人物の気持ちが激しくて疲れる、という人にこそ、すすめたい作品です。大きな事件より、生徒会の日常や帰り道の会話が中心なので、静かな気分の日に向いています。最初の1巻は、侑が「わからない」と感じている場面だけ、少しゆっくり読んでみてください。そこが、この作品の入口だと思います。喜好
アニメで観るなら
TVアニメ『やがて君になる』は、2018年10月5日に放送が始まりました。事實[3]
シリーズ構成・脚本は花田十輝さん、音楽は大島ミチルさん、アニメーション制作はTROYCAです。小糸侑の声は高田憂希さん、七海燈子の声は寿美菜子さん。事實[4]
漫画で私が長く感じていた沈黙は、アニメでは、ほんとうに時計の針が進む時間として流れます。台詞のないコマを自分の速さで味わう漫画と、同じ間を同じ長さで差し出されるアニメとでは、同じ沈黙でも違って聞こえる。私はどちらも、気持ちに答えを急がない時間として受け取りました。喜好
誰かにこの作品を勧めるなら、漫画が苦手な人にはアニメの第1話から、と言いたいです。そのときは「二人が黙っているところで、早送りしないでみて」と一言添えて。喜好
ほかの5作とのつながり
中学生で読んだ『3月のライオン』では、言葉にならない気持ちを抱えたまま読むことを覚えました。この漫画で、それを「抱えたままでいい」と思えるようになりました。そして、そのあと働き始めてから観た『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の、言葉になるまでの時間を待つ優しさへと、気持ちがつながっていきます。喜好
自分の気持ちにまだ名前がつかなくてもいい。名前のないまま大事にしている気持ちも、ちゃんとあなたのものだから。