目錄
好きな6作品の五本目は、映画の『かもめ食堂』。大きな事件はほとんど起きないのに、観終わると、自分の部屋の空気が少し変わっている。そんな作品です。物語の流れには触れず、場所とごはんのあいだに流れる時間の話をします。
「好きな場所」を考えた日
出会ったのは小学校の高学年のころ。テレビで放送していたのを、宿題をしながらなんとなく観ていたはずが、気づいたら鉛筆を置いていました。観終わってから、ノートの端に「自分が好きな場所」を書き出したのを覚えています。図書室の窓ぎわ、祖母の家の縁側、夕方の台所。場所を好きになるという気持ちを、私はこの映画で初めて意識したんだと思います。
監督・脚本は荻上直子さん、原作は群ようこさん。2006年の作品で、小林聡美さん、片桐はいりさん、もたいまさこさんたちが出演しています。事實[1]
舞台はヘルシンキ、フィンランドの首都です。日本人女性のサチエが小さな食堂を営んでいて、看板メニューは「おにぎり」。でも最初のころは、お客さんが来ません。物語はそこから始まります。事實[2]
好きなところ1 お客さんが来なくても店を整える
私がこの映画でいちばん好きなのは、お客さんがいない時間の過ごし方です。食器を拭いて、テーブルを整えて、いつ来るかわからない誰かのために、店をきちんとしておく。焦って何かを変えるのではなく、自分の場所を毎日同じように手入れする。その静かな繰り返しが、観ている私の呼吸までゆっくりにしてくれます。解讀
好きなところ2 台所の音と湯気と器
台所の場面が、とにかく好きです。何かを刻む音、焼ける音、コーヒーの湯気。北欧の明るい台所で、日本のごはんが手際よく作られていく景色は、いくら見ていても飽きません。料理が「すごいもの」として映されるのではなく、毎日の手仕事として映されているから、画面の前で一緒にお腹がすいてくる。器の置き方まで覚えてしまうのは、たぶんこの映画のせいです。喜好
私は、遠い町なのに「旅」っぽく撮っていないところが気になってた。名所を巡るんじゃなくて、同じ通り、同じ店に毎日いる。旅先というより、そこで暮らしている感じ。解讀
あ、それだ。外国の話なのに、知らない場所を見せられてる感じがしないんだよね。いつのまにか、あの店の常連になってる。解讀
私も同じ喫茶店に何年も通ってるから、ちょっとわかる。ただ、ヘルシンキに住んでいる人から見たらどう映るのかは、私にはわからない。そこは聞いてみたいな。
好きなところ3 会話の「間」が長い
登場人物たちは、あまりたくさんしゃべりません。言葉と言葉のあいだに、少し長めの沈黙がある。でもそれが気まずくない。同じテーブルで黙ってごはんを食べられる相手がいることの安心を、この映画は台詞ではなく「間」で見せてくれる気がします。解讀
それぞれ事情を抱えていそうな人たちが、その事情を全部は話さないまま、同じ店で同じ時間を過ごしていく。聞きすぎない、急かさない。その距離のとり方が、私にはとても心地いいんです。観ているうちに、自分も黙ってそのテーブルの端に座らせてもらっているような気持ちになります。解讀
好きなところ4 おにぎりのまっすぐさ
看板メニューがおにぎり、というところも、私はとても好きです。遠い国で、わざわざいちばん素朴なものを出す。派手さで呼びこむんじゃなく、自分がおいしいと信じているものを、そのまま置いておく。その頑固さが、静かでかっこいいなと思います。解讀
小学生の私は、観終わったあと、台所でおにぎりを握らせてもらいました。手に塩をつけすぎて、すごくしょっぱいのができた。でも、自分で握ったものを自分で食べるのが、妙にうれしかったんです。いまでも、気持ちが散らかっている日はおにぎりを一つ握ります。手を動かしているあいだ、余計なことを考えずにいられるから。
私の目から:場所が人を迎える
「人物が安心できる場所のつくられ方」を考えるとき、私はいつもこの食堂を思い出します。誰かを呼びこむために大きな声を出すんじゃなくて、毎日同じように扉を開けて、同じようにごはんを用意しておく。場所がそこにあり続けることが、迷っている人にとっての入口になる。食事は、その場所に流れる時間を、いちばんわかりやすく見せてくれるものなんだと思います。解讀
はじめての人へ
「何も起きない映画は退屈かも」と思う人ほど、休日の午後に観てほしいです。おすすめは、温かい飲みものを用意して、部屋を少し片づけてから観ること。観終わったら、おにぎりを一つ、ゆっくり握ってみてください。具は何でもいいです。喜好
ほかの好きな作品とのつながり
知らない町で自分の店と暮らしをつくっていく姿は、『魔女の宅急便』のキキとどこか重なります。台所に立つ人をずっと見ていたい気持ちは、いまの『きのう何食べた?』に。自分の場所を毎日少しずつ手入れする楽しさは、『あつまれ どうぶつの森』の島にもつながっています。一人の時間も、誰かとテーブルを囲む時間も好き、という私の出発点は、たぶんこの映画です。解讀
自分の「好きな場所」を三つ書き出してみる。そのうち一つを今日少しだけ手入れする。