アニメの歴史を、作品ではなく「だれが頼んで、だれが作ったか」から見てみる。歴史好きの社長タカシが、最初のページを開きました。
人間界で最初の動く絵は、だれが作ったんですか? 魔法使いの幻術ですか?
幻術ではなく、漫画家です。……ただ、ひとりで思い立ったわけでもないんですよ。
1917年1月の浅草
国立映画アーカイブの「日本アニメーション映画クラシックス」は、2017年7月の時点で、公開の時期がいちばん早いアニメーション映画を、1917年1月の『凸坊新畫帖、芋助猪狩の巻』だろうと見ています。ただし、そのフィルムは見つかっていません。いま観られる作品の中でいちばん古いのは、同じ年の6月に公開された、幸内純一による『なまくら刀』です。事實[1]
手がけたのは下川凹天で、当時はまだ駆け出しの漫画家でした。天活という映画会社から頼まれて、1916年の終わりに短編アニメーションの制作に取りかかった、と記録に残っています。事實[2]
依頼から始まっているんですね。作りたい人より先に、上映したい人がいた。有依據的推測
そうなんです。翌月には幸内純一も、小林喜三郎という興行主の依頼で前川千帆と制作を始めています。半年のうちに、何人もの描き手が相次いで作品を出しました。事實[2]
酒場の主人が、吟遊詩人に新しい歌を注文するのと同じですか?
近いですね。ただ、歌はその場で消えますが、フィルムは何度でも、別の町でも上映できます。注文した側にとっては、一度作れば繰り返し使える商品だったのだと思います。解讀
ひとりで描かない仕組み
私が面白いと思ったのは、画家の北山清太郎です。日活で一年に10本を上回るペースで作品を出せたのは、作画と撮影それぞれに担当者を置いて、集団で作る体制を組んだからだそうです。北山映画製作所は、1921年に北山が日活を出てつくった会社です。喜好[3]
100年前に、もう分業と独立があった。町内会の行事も、ひとりの熱心な人だけだと続かないけど、係を分けると毎年回るようになるんですよね。解讀
組織をつくると、速く遠くまで行ける。その代わり、人を集めた人には、集めた人を守る責任が生まれます。解讀
宣伝映画という仕事
幸内純一は、依頼元だった小林商会がアニメーション製作から手を引いたのをきっかけに、いったん新聞漫画の仕事に戻りました。アニメーションにもう一度取り組んだのは、1923年にスミカズ映画創作社をつくってからです。その仕事の一つが、当時の内務大臣で帝都復興院総裁も兼ねていた後藤新平のPR映画で、幸内はそこにアニメーションを使いました。事實[4]
注文主がやめたら、仕事もなくなる。でも次は、伝えたいことがある人がアニメを頼みにきた。有依據的推測
はい。娯楽として見せる注文と、何かを伝えるための注文。いまのアニメの仕事にも、その二つの流れが残っているように私には見えます。解讀
最初から芸術でも商売でもあった、と言うと単純すぎるかな。でも、頼む人と描く人の両方がいたから、半年のうちに何本も作品が出た。その速さには、注文の力を感じます。解讀
同感です。そして、注文主が撤退すれば仕事も消える。描き手の側から見ると、心細い時代でもあったのでしょうね。有依據的推測
最初の一本は、描く人と頼む人の、ふたりで生まれたんですね。
日本のアニメは1917年、映画会社の依頼に漫画家が応えて始まった。作品の歴史は、注文の歴史でもある。