目錄
6選の三本目は『タッチ』です。野球と、双子と、幼なじみの物語。子どものころは野球の場面だけを待っていましたが、大人になって効いてきたのは、野球をしていない時間のほうでした。
兄の録画を横からのぞいた
最初は、三つ上の兄が録画していたのを横から観ていました。兄は勉強のできる人で、テレビの前でもどこか冷静でした。私はといえば、試合の場面になると立ち上がって、テレビに向かって声を出す子どもです。兄に「静かに観なさい」と言われては座り、また立ち上がる。その繰り返しでした。喜好
原作はあだち充さんの漫画です。小学館コミックのページにある第1巻の紹介文は、双子なのに兄はぐうたらで弟はスーパーマン、南ちゃんはお隣に住んでいて、とにかく「カワユイ!!」という書き方です。事實[1]
好きな理由1:本気を見せない主人公
グウタラな兄。この主人公は、とにかく本気を見せません。何でもできそうな弟の隣で、のらりくらりと冗談を言っている。子どものころの私は、それがもどかしくて仕方ありませんでした。早よ本気出しや、と画面に言っていた気がします。喜好
ところが大人になって観返すと、見え方がまるで違いました。冗談でかわす人ほど、言わずにいるものが多い。本気を見せないのは、本気がないからではないのかもしれない。カウンターに立っていると、そういうお客さんに毎晩のように出会います。軽口の裏の、言葉にしていない気持ち。この作品は、それを無理にこじ開けずに、そっと置いておいてくれるんです。解讀
好きな理由2:言わない台詞の多さ
この作品の会話は、肝心なことを言いません。言いかけてやめる、冗談にすり替える、黙って窓の外を見る。その「言わない」の積み重ねで、登場人物の気持ちが伝わってくる。説明の台詞がほとんどないのに、ちゃんと分かる。台詞の外側で語る作品だと思います。解讀
好きな理由3:野球をしていない時間
家の前の道、隣の家、夕方の部屋。この作品には、野球をしていない何でもない時間がたっぷり描かれています。子どものころは早送りしたかった場面です。でも、その何でもない時間があるからこそ、グラウンドの場面が特別になる。いまは、むしろそちらを観たくて再生しています。解讀
遠回りの夏に重ねたこと
小学生のころから男子に混じって野球をして、エースで4番を任されていました。中学までは野球を続けましたが、高校は近くに女子が野球を続けられる場所がなく、ソフトボールに移りました。ボールの大きさも、投げ方も違う。最初の夏は、正直に言って悔しかったです。喜好
そのころ、兄の録画をもう一度観ました。まっすぐ進めない主人公。遠回りばかりしているように見える毎日。でも、遠回りの途中で拾ったものが、あとで効いてくることもある。そう思えたのは、この作品のおかげです。ソフトボールで覚えた下からの投げ方は、いまカウンターでボトルを放るときの手首に、ちゃんと残っています。喜好
カオルさんでも、遠回りした時期があったんですね。バッティングセンターでは、一球も空振りしないのに。
空振りした数なら、ハルさんに負けへんよ。数えてへんだけで。
兄といまも話すこと
録画を残していた兄は、いまは外科医になって、忙しい毎日を送っています。実家に帰って顔を合わせても、医者の家族の会話にはやっぱりついていけません。それでも、この作品の話をするときだけは、二人とも子どものころの顔に戻ります。兄は昔と同じように静かに観る派で、私は昔と同じように声が出る派です。あの場面のあの台詞、と言い合っているうちに、気がつくと夜が更けている。兄弟のあいだにも、言わないで通じるものがあるのかもしれません。この作品の兄弟がそうであるように、多くを語らないまま、同じものを大事にしている。私と兄も、案外そういう兄妹なのだと思います。喜好
苦手な人への入口
野球のルールが分からなくても、まったく問題ありません。おすすめは、野球の物語ではなく、隣どうしの家に住む三人の物語として観はじめることです。試合の場面より、家の前で交わされる何気ない会話に耳を澄ませてみてください。台詞の少ない場面ほど、表情と間が多くを語っています。
それから、急いで観ないことです。一気に観るより、一日一話くらいがちょうどいい。この作品の時間は、ゆっくり流れています。こちらもゆっくり付き合うと、遠回りの味がよく分かります。喜好
ほかの6選とのつながり
同じ野球の物語でも、『MAJOR』の主人公は、何度でもまっすぐマウンドに向かっていきます。こちらの主人公は、なかなかまっすぐ向かわない。私はどちらにも、自分の一部を見ています。そして、ふざけているようで大事なものを背負っている『銀魂』の銀さんとも、どこか似ている気がします。軽口の裏に本気を隠す人が、私はどうも好きなようです。喜好
まっすぐ進めない時間にも、拾えるものはある。遠回りの味は、大人になってから効いてきます。